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	<title>田野辺薫の名コースめぐり</title>
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	<pubDate>Mon, 14 May 2012 01:20:18 +0000</pubDate>
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		<title>第65回　東宇都宮カントリークラブ</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 01:20:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

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		<description><![CDATA[
自然＋バンカー＋水景美の魅力
　気張る（きばる）－という言葉がある。岩波国語辞典に「①いきごむ。勇み立つ。元気を出す」とある。「②思い切って金銭をはずむ。チップを出す」ともあるが、こちらは本稿とは関係がない。
　この文章は、二人の気張った男のことから書き始める。そしてそれは、結果として東宇都宮カントリークラブの魅力を書くことになる。
　東宇都宮ＣＣは、那須小川ＣＣ（栃木県）の第２コース開発から始っている。現在の東宇都宮ＣＣ理事長、東宇都宮観光㈱社長の広中三男は、その現地開発プロジェクトチームのリーダーだった。ところが、用地交渉がまとまり契約段階になって、親会社が建設を中止。現地リーダーだった広中は、協力した地主たちとの信頼関係を守るために、現地チームをそのまま東宇都宮観光㈱に発展させて、昭和49年７月10日最初の18ホールズを開場したのだった。
　設計の小林光昭とは、那須小川ＧＣを設計したのが機縁、小林は日本緑化土木㈱設立に参加、その仕事の中で安田幸吉、三好徳行、井上誠一らの設計術を習得、独立して伊香保国際ＣＣ、草津ＣＣ、那須小川ＧＣで共作、監修の仕事をしていたがまだ新鋭、完全なソロデザインは東宇都宮ＣＣだったと、広中社長は証言する。15年後に増設した西コースを含めて、「自在に腕を揮って貰った」という。
　東宇都宮ＣＣの成功の後、小林は、キングフィールズＧＣ、鳩山ＣＣ、湯の浦ＣＣ、ザ･ピリビレッジなど36コースを世に出す売れっ子設計者となった。
　２人の気張りッ子が、東宇都宮ＣＣを世に出したのである。
　経営面でも、社長広中三男は気張った。開場以来40年、メンバーには情報公開を徹底、また名義変更停止ナシ、据え置き期間延長もナシ、次々に倒産事件が起った預託金償還不況期にもたじろがず対応した数少い独立資本の一つであった。
バンカーリングの妙　東・南コース
　ウォーターランドスケープ　西コースの美と戦略性
　「今あるコースの中で最も素晴しいと感じるのは自然が創ったコースです」
　マスターズ・トーナメントのオーガスタ・ナショナルＧＣを設計したアリスター・マッケンジーの言葉である。
　しかし自然にも限界がある。まして国土の狭い日本ではそこに在る自然に語らせるだけで、ゴルフコースとして十分に美しく十分に楽しめる戦略性が期待できる素材は、そう多くはない。
　では意に適う自然に恵れない時、設計者たちはどうするか。バンカーや水景を考える。その数、置き方、かたちを工夫して、自然と見紛う魅力ある表情を造ろうとするだろう。昭和49年開場の東宇都宮ＣＣ東・南コースは、バンカーリングの妙を主眼に造られたコースである。代表例は、グリーンまわりを10個のガードバンカーで堅めた東２番（パー３）と南６番（パー５）グリーンまわりのバンカー配置である。「池を造るには地形に無理があり狹かった。創業初期で資金にも限界があった」（広中社長）という事情もあったようだ。
　昭和49年誕生の東南18ホールは殆んど水景ナシのバンカーリングの配置、造型で、各ホールの表情を作っている。
　これに対し15年後の平成元年７月に増設された西コース（９ホール）は、高低差６メートルの広くて平坦な用地の中心に、池というよりレイク（湖）に近い大きな水景を置き、その水際と水面に３番、５番、６番の印象的な水景ホールを置いたレイクサイドコースに仕上げたのが特徴である。
　15年の間に、コースデザインの時代性向も変わったし、設計者小林光昭も脱皮していた。小林はレイクウッドＧＣ（神奈川県、昭和45年開場）の造成に際して、水の魔術師といわれた米人設計家Ｔ・Ｇ・ロビンソン（元米国設計家協会会長）の下で働き、その影響で水面の戦略性にこだわる水際設計で売り出していた。たとえばキングフィールズＧＣ、浜野ＧＣ、鳩山ＣＣなど、在来は造園的な美しさで見られていたコース内の水面を、置き方によって戦略性が変化する対角線ハザードとして据えるという新しい設計で人気が上昇していた。
　15年の間に小林は、バンカーリング中心からバンカーや水景・ウォーターランドスケープの設計哲学に進化して行ったのである。以下、西コースのうち主なウォーター・ランドスケープホールを紹介しよう。
“用を以って美となす”水景３ホール
　３番（344ヤード・パー４）高低差マイナス４ｍ。右側に大きな水面（池）を見ながら、第一打はゆるやかな打下し。フェアウェイは広いので、右の池にこだわず豪快に打て。目標は、正面に見えるモチの木のやや左狙いが安全、ベスト。グリーンは砲台型だから高い球でピタリと止めたい。ヤーデージは短いので焦らず正確に２オンしたいホールだ。
　５番（390ヤード・パー４）高低差マイナス６メートル。フェアウェイの両側に池の水面が広がる。グリーン前には、両水面を結ぶクリークがあるから第２打では要警戒である。ともあれゆるい打下しのテイグラウンドに立つと、フェアウェイは湖に浮いた島に見えて、ウォーターラウンド・スケープの景観美が楽しい。ひと息水景美を楽しんだら、両側の水面は無視して豪快に打ちたいが？第１打をミスしたら、第２打は、グリーン前を横切る水面の手前に刻み、慎重に攻めたい。
　６番(430ヤード・パー４)高低差マイナス４メートル。フェアウェイは、250ヤード地点で右に池を抱いてドッグレッグしている。その池に突出した小半島（鼻）がある。ここがグリーンへの最短距離（210ヤード）だが危険も大きい。高いボールで大きく打てるかどうか。成功したらロングヒッターの名に値する。ギャンブル性とストラテジーが一緒になった魅力あるホールだ。
　「用を以て美となす」という古諺があるが、この２ホールは、戦略性の高いホールは且つ美しいという見本である。
　そして最後に９番ホール（448ヤード・パー４）7.5メートルを打ちおろすドラコンホール。ここも第２打が池越えだが、距離もありグリーン回りが池、バンカーと狭いので、右まわりの３オンが賢明かと思うが如何？
所在地　　　　　　栃木県那須郡烏山市鴻野山1011
コース規模　　　西　９Ｈ・3392Ｙ・Ｐ36
　　　　　　　　　　東　９Ｈ・3360Ｙ・Ｐ36
　　　　　　　　　　南　９Ｈ・3488Ｙ・Ｐ36
設計　　　　　　　小林　光昭
開場日　　　　　　昭和49年７月10日
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div><strong id="[object]"></strong></div>
<div id="attachment_710" class="wp-caption alignright" style="width: 410px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/05/nishi9.jpg"><img class="size-full wp-image-710 " title="東宇都宮カントリークラブ　西９番ホールとクラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/05/nishi9.jpg" alt="東宇都宮カントリークラブ　西９番ホールとクラブハウス" width="400" height="140" /></a><p class="wp-caption-text">東宇都宮カントリークラブ　西９番ホールとクラブハウス</p></div>
<p id="[object]"><strong>自然＋バンカー＋水景美の魅力</strong></p>
<p id="[object]">　気張る（きばる）－という言葉がある。岩波国語辞典に「①いきごむ。勇み立つ。元気を出す」とある。「②思い切って金銭をはずむ。チップを出す」ともあるが、こちらは本稿とは関係がない。</p>
<p id="[object]">　この文章は、二人の気張った男のことから書き始める。そしてそれは、結果として東宇都宮カントリークラブの魅力を書くことになる。<br />
　東宇都宮ＣＣは、那須小川ＣＣ（栃木県）の第２コース開発から始っている。現在の東宇都宮ＣＣ理事長、東宇都宮観光㈱社長の広中三男は、その現地開発プロジェクトチームのリーダーだった。ところが、用地交渉がまとまり契約段階になって、親会社が建設を中止。現地リーダーだった広中は、協力した地主たちとの信頼関係を守るために、現地チームをそのまま東宇都宮観光㈱に発展させて、昭和49年７月10日最初の18ホールズを開場したのだった。<br />
　設計の小林光昭とは、那須小川ＧＣを設計したのが機縁、小林は日本緑化土木㈱設立に参加、その仕事の中で安田幸吉、三好徳行、井上誠一らの設計術を習得、独立して伊香保国際ＣＣ、草津ＣＣ、那須小川ＧＣで共作、監修の仕事をしていたがまだ新鋭、完全なソロデザインは東宇都宮ＣＣだったと、広中社長は証言する。15年後に増設した西コースを含めて、「自在に腕を揮って貰った」という。<br />
　東宇都宮ＣＣの成功の後、小林は、キングフィールズＧＣ、鳩山ＣＣ、湯の浦ＣＣ、ザ･ピリビレッジなど36コースを世に出す売れっ子設計者となった。<br />
　２人の気張りッ子が、東宇都宮ＣＣを世に出したのである。<br />
　経営面でも、社長広中三男は気張った。開場以来40年、メンバーには情報公開を徹底、また名義変更停止ナシ、据え置き期間延長もナシ、次々に倒産事件が起った預託金償還不況期にもたじろがず対応した数少い独立資本の一つであった。</p>
<div id="attachment_714" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/05/nishi5.jpg"><img class="size-medium wp-image-714" title="東宇都宮カントリークラブ　西５番ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/05/nishi5-300x199.jpg" alt="東宇都宮カントリークラブ　西５番ホール" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">東宇都宮カントリークラブ　西５番ホール</p></div>
<p id="[object]"><strong>バンカーリングの妙　東・南コース<br />
　ウォーターランドスケープ　西コースの美と戦略性</strong></p>
<p id="[object]">　「今あるコースの中で最も素晴しいと感じるのは自然が創ったコースです」<br />
　マスターズ・トーナメントのオーガスタ・ナショナルＧＣを設計したアリスター・マッケンジーの言葉である。<br />
　しかし自然にも限界がある。まして国土の狭い日本ではそこに在る自然に語らせるだけで、ゴルフコースとして十分に美しく十分に楽しめる戦略性が期待できる素材は、そう多くはない。<br />
　では意に適う自然に恵れない時、設計者たちはどうするか。バンカーや水景を考える。その数、置き方、かたちを工夫して、自然と見紛う魅力ある表情を造ろうとするだろう。昭和49年開場の東宇都宮ＣＣ東・南コースは、バンカーリングの妙を主眼に造られたコースである。代表例は、グリーンまわりを10個のガードバンカーで堅めた東２番（パー３）と南６番（パー５）グリーンまわりのバンカー配置である。「池を造るには地形に無理があり狹かった。創業初期で資金にも限界があった」（広中社長）という事情もあったようだ。<br />
　昭和49年誕生の東南18ホールは殆んど水景ナシのバンカーリングの配置、造型で、各ホールの表情を作っている。<br />
　これに対し15年後の平成元年７月に増設された西コース（９ホール）は、高低差６メートルの広くて平坦な用地の中心に、池というよりレイク（湖）に近い大きな水景を置き、その水際と水面に３番、５番、６番の印象的な水景ホールを置いたレイクサイドコースに仕上げたのが特徴である。<br />
　15年の間に、コースデザインの時代性向も変わったし、設計者小林光昭も脱皮していた。小林はレイクウッドＧＣ（神奈川県、昭和45年開場）の造成に際して、水の魔術師といわれた米人設計家Ｔ・Ｇ・ロビンソン（元米国設計家協会会長）の下で働き、その影響で水面の戦略性にこだわる水際設計で売り出していた。たとえばキングフィールズＧＣ、浜野ＧＣ、鳩山ＣＣなど、在来は造園的な美しさで見られていたコース内の水面を、置き方によって戦略性が変化する対角線ハザードとして据えるという新しい設計で人気が上昇していた。<br />
　15年の間に小林は、バンカーリング中心からバンカーや水景・ウォーターランドスケープの設計哲学に進化して行ったのである。以下、西コースのうち主なウォーター・ランドスケープホールを紹介しよう。</p>
<div id="attachment_719" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/05/nishi6.jpg"><img class="size-medium wp-image-719" title="東宇都宮カントリークラブ　西６番ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/05/nishi6-300x199.jpg" alt="東宇都宮カントリークラブ　西６番ホール" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">東宇都宮カントリークラブ　西６番ホール</p></div>
<p id="[object]"><strong>“用を以って美となす”水景３ホール</strong></p>
<p id="[object]">　３番（344ヤード・パー４）高低差マイナス４ｍ。右側に大きな水面（池）を見ながら、第一打はゆるやかな打下し。フェアウェイは広いので、右の池にこだわず豪快に打て。目標は、正面に見えるモチの木のやや左狙いが安全、ベスト。グリーンは砲台型だから高い球でピタリと止めたい。ヤーデージは短いので焦らず正確に２オンしたいホールだ。<br />
　５番（390ヤード・パー４）高低差マイナス６メートル。フェアウェイの両側に池の水面が広がる。グリーン前には、両水面を結ぶクリークがあるから第２打では要警戒である。ともあれゆるい打下しのテイグラウンドに立つと、フェアウェイは湖に浮いた島に見えて、ウォーターラウンド・スケープの景観美が楽しい。ひと息水景美を楽しんだら、両側の水面は無視して豪快に打ちたいが？第１打をミスしたら、第２打は、グリーン前を横切る水面の手前に刻み、慎重に攻めたい。<br />
　６番(430ヤード・パー４)高低差マイナス４メートル。フェアウェイは、250ヤード地点で右に池を抱いてドッグレッグしている。その池に突出した小半島（鼻）がある。ここがグリーンへの最短距離（210ヤード）だが危険も大きい。高いボールで大きく打てるかどうか。成功したらロングヒッターの名に値する。ギャンブル性とストラテジーが一緒になった魅力あるホールだ。<br />
　「用を以て美となす」という古諺があるが、この２ホールは、戦略性の高いホールは且つ美しいという見本である。<br />
　そして最後に９番ホール（448ヤード・パー４）7.5メートルを打ちおろすドラコンホール。ここも第２打が池越えだが、距離もありグリーン回りが池、バンカーと狭いので、右まわりの３オンが賢明かと思うが如何？</p>
<p id="[object]">所在地　　　　　　栃木県那須郡烏山市鴻野山1011<br />
コース規模　　　西　９Ｈ・3392Ｙ・Ｐ36<br />
　　　　　　　　　　東　９Ｈ・3360Ｙ・Ｐ36<br />
　　　　　　　　　　南　９Ｈ・3488Ｙ・Ｐ36<br />
設計　　　　　　　小林　光昭<br />
開場日　　　　　　昭和49年７月10日</p>
]]></content:encoded>
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		<title>第64回　ザ・サザンリンクスゴルフクラブ</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=698</link>
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		<pubDate>Sat, 28 Apr 2012 00:50:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

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		<description><![CDATA[日本に稀な“断崖ホールの迫力”
　
　筆者は、沖縄のゴルフ場経験は、大京、琉球、那覇、ザ・サザンリンクス、パームヒルズ、沖縄国際、そして今は姿を消したアワセメドウの７コースである。浅い経験である。その中で、一番印象に残っているのは、涯しなく広い太平洋の海岸に沿ったザ･サザンリンクスの断崖美である。
　日本は、四方を海に囲まれた島国である。海岸に沿ったシーサイドゴルフコースは少くない。しかし、大洗、片山津、古賀に代表されるように、殆んどが砂浜の海岸に広がる防風林、防潮林の中のシーサイドリンクスである。断崖絶壁の上に造られたコースは絶無に近い。僅かに有名コースでは、川奈・富士コース15番がそれに近いが、断崖というにはやや低くさらに海ぎわには大木の松が列をつくり、断崖ホール独特のスペクタクル感が少い。パサージュ琴海（長崎）、夏泊（青森）に、崖の上から放つ数ホールが印象に残るが、残念ながら、ともに内湾である。
　見渡す限り、視野いっぱいに広がる太平洋の青い海面を40～50メートル下に見下してそそり立つ沖縄本島東海岸に展開するザ・サザンリンクスＧＣの断崖シーンの迫力には、較ぶべくもない。それにここに列なる断崖列には、歴史の記憶がある。
　2002年（平成４年）筆者は、次のように書いている。
　「太平洋戦争末期、米軍に追われた日本軍や沖縄県民は、南へ南へと逃れて糸満、摩文仁に追い詰められ、そこで散華する。歴史の偶然だろうか。不思議なことにいま、その地域には、那覇、琉球、ザ･サザンリンクス、パームヒルズなど沖縄の有名コースが集まる。パームヒルズの打ち下ろし12番ホールからは、ひめゆりの塔が望まれる」
　昭和60年コース造成に着工した頃はまだ、用地内には、終戦直前に連日くり返された米海軍の艦砲射撃が落した不発弾が残っていた。磁気探査をしながらの伐採、　土工事だったと、施工関係者から聞いたことがある。
　しかし今は、平和。太平洋の大パノラマに向って真正面から一直線に打つ１番（375ヤード・パー４）は“初日の出”御来迎のスポットとして、ゴルファーに人気、ホテル（52室）は満員になるそうだ。
スペクタクルな７、８番を攻める
　
　ザ・サザンリンクスには、太平洋の涯しなく広く青い海面を、50メートル下に見下してそそり立つ断崖が連っている。そこに「東洋のぺブルビーチを造る」と発想して生れた18ホールだと聞いた。だが断崖の凄味が違う。ペブルビーチは、カーメル湾という内海だ。ここは太平洋上に裸で突出した断崖上のリンクスランドだ。自然の大きさ、迫力が違う。断崖ショットは、ぺブルビーチは、７番、８番だけ。ここも７番、８番だ。しかしここには太平洋がある。景色の大きさ、威圧感、穏やかな日のおおらかさで、ザ・サザンリンクスのオーシャンフロントが上であろう。
　1988年（昭和63年12月１日、18ホール、6721ヤード、パー72が開場。設計は自社㈱琉球リゾート。匿名の人は誰れか。関心を持ちたくなるほどルーティングも戦略設計も的確。海に面したシーサイド区域とクラブハウス裏の低地になった内陸部を上手く交差させて、戦略度のバランスをとっている。断崖美の２ホールも十二分に凄いが、たとえば10番（572ヤード・パー５）は、プッシュアウトした右の法面が、原地型の地表を剥いだだけの手掴みの面白さがいい。広いフェアウェイをひたすらストレートに延した12番（412ヤード・パー４）も殆ど手つかずの不作爲の魅力、ひたすら真っ直ぐというシンプルスさが、プレーする人をヒロイックにする。リンクスの先輩スコットランドにも、こんなホールはそんなに多くはない。
　このように内陸部の各ホールも悪くはない。しかしザ・サザンリンクスの評価を高めているのは、断崖越えの２ホールである。今回は、その７、８番ホールを紹介する。
　７番ホール（418ヤード・パー４）遥か向うの断崖上にグリーンが見える。テイとの間には約418ヤードの太平洋と50メートルの断崖が挟まれていて、むろん１オンは無理。フェアウェイは左廻りでグリーンへ伸びて、幅員は十分に広いがグリーンへ約５メートルの上り坂だ。２オンには幸運が必要だ。第１打は左フェアウェイへ狙うわけだが、飛ばし屋ほど右の方へ大きく海を越える。自信のないプレーヤーは、テイの直ぐ左下のフェアウェイへ少しばかり飛せば安全。しかしそれでは５メートルもの右上りスロープのフェアウェイで、３オンは覚束かないし、７番ホールでプレーする意味がない。ここでは冒険しよう。コルト＆アリソン理論の対角線ハザードに、太平洋の大断崖を当てはめた傑作ホールである。自社設計の陰にかくれた設計者の個人名を知りたくなる…。
　８番（181ヤード、パー３）ここはバックテイから打ちたい。テイは、太平洋に突き出した断崖上にある。181ヤード先のグリーンは40メートルの断崖上で表面は見えない。ドライバーでも届きそうにない。アゲンストの風に、雨も降り始めた。足が竦む。諦めて120ヤードのレギュラーテイに移った。グリーンを見下すテイ位置から７番アイアンで、エプロンまで運んだ。筆者の８番ホール・スペクタクル体験である。
　なおオープン後の改造で、現在のホール・ルーティングは、インコースの16番（パー４）　17番（パー３）　18番（パー４）も、断崖越えショットはないものの、右側に太平洋を見ながら打ちつないで進む雄大な展開の断崖上シーサイドリンクスとなっている。
所在地　　　　　　沖縄県島尻郡八重瀬町字玻名城697番地
コース規模　　　18ホール・7030ヤード・パー72　
設計　　　　　　　　㈱琉球リゾート
コースレート 　　未査定
開場日　　　　　　昭和63年12月１日
経営　　　　　　　　㈱琉球リゾート　→　㈱アコーディアゴルフ
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p id="[object]"><strong>日本に稀な“断崖ホールの迫力”<br />
</strong>　</p>
<div id="attachment_701" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini22.jpg"><img class="size-medium wp-image-701" title="ザ・サザンリンクスゴルフクラブ　クラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini22-300x168.jpg" alt="ザ・サザンリンクスゴルフクラブ　クラブハウス" width="300" height="168" /></a><p class="wp-caption-text">ザ・サザンリンクスゴルフクラブ　クラブハウス</p></div>
<p id="[object]">　筆者は、沖縄のゴルフ場経験は、大京、琉球、那覇、ザ・サザンリンクス、パームヒルズ、沖縄国際、そして今は姿を消したアワセメドウの７コースである。浅い経験である。その中で、一番印象に残っているのは、涯しなく広い太平洋の海岸に沿ったザ･サザンリンクスの断崖美である。<br />
　日本は、四方を海に囲まれた島国である。海岸に沿ったシーサイドゴルフコースは少くない。しかし、大洗、片山津、古賀に代表されるように、殆んどが砂浜の海岸に広がる防風林、防潮林の中のシーサイドリンクスである。断崖絶壁の上に造られたコースは絶無に近い。僅かに有名コースでは、川奈・富士コース15番がそれに近いが、断崖というにはやや低くさらに海ぎわには大木の松が列をつくり、断崖ホール独特のスペクタクル感が少い。パサージュ琴海（長崎）、夏泊（青森）に、崖の上から放つ数ホールが印象に残るが、残念ながら、ともに内湾である。<br />
　見渡す限り、視野いっぱいに広がる太平洋の青い海面を40～50メートル下に見下してそそり立つ沖縄本島東海岸に展開するザ・サザンリンクスＧＣの断崖シーンの迫力には、較ぶべくもない。それにここに列なる断崖列には、歴史の記憶がある。<br />
　2002年（平成４年）筆者は、次のように書いている。<br />
　「太平洋戦争末期、米軍に追われた日本軍や沖縄県民は、南へ南へと逃れて糸満、摩文仁に追い詰められ、そこで散華する。歴史の偶然だろうか。不思議なことにいま、その地域には、那覇、琉球、ザ･サザンリンクス、パームヒルズなど沖縄の有名コースが集まる。パームヒルズの打ち下ろし12番ホールからは、ひめゆりの塔が望まれる」<br />
　昭和60年コース造成に着工した頃はまだ、用地内には、終戦直前に連日くり返された米海軍の艦砲射撃が落した不発弾が残っていた。磁気探査をしながらの伐採、　土工事だったと、施工関係者から聞いたことがある。<br />
　しかし今は、平和。太平洋の大パノラマに向って真正面から一直線に打つ１番（375ヤード・パー４）は“初日の出”御来迎のスポットとして、ゴルファーに人気、ホテル（52室）は満員になるそうだ。</p>
<p id="[object]"><strong>スペクタクルな７、８番を攻める<br />
</strong>　</p>
<div id="attachment_703" class="wp-caption alignright" style="width: 510px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini12.jpg"><img class="size-full wp-image-703" title="ザ・サザンリンクスゴルフクラブ　７番（パー４）ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini12.jpg" alt="ザ・サザンリンクスゴルフクラブ　７番（パー４）ホール" width="500" height="174" /></a><p class="wp-caption-text">ザ・サザンリンクスゴルフクラブ　７番（パー４）ホール</p></div>
<p id="[object]">　ザ・サザンリンクスには、太平洋の涯しなく広く青い海面を、50メートル下に見下してそそり立つ断崖が連っている。そこに「東洋のぺブルビーチを造る」と発想して生れた18ホールだと聞いた。だが断崖の凄味が違う。ペブルビーチは、カーメル湾という内海だ。ここは太平洋上に裸で突出した断崖上のリンクスランドだ。自然の大きさ、迫力が違う。断崖ショットは、ぺブルビーチは、７番、８番だけ。ここも７番、８番だ。しかしここには太平洋がある。景色の大きさ、威圧感、穏やかな日のおおらかさで、ザ・サザンリンクスのオーシャンフロントが上であろう。<br />
　1988年（昭和63年12月１日、18ホール、6721ヤード、パー72が開場。設計は自社㈱琉球リゾート。匿名の人は誰れか。関心を持ちたくなるほどルーティングも戦略設計も的確。海に面したシーサイド区域とクラブハウス裏の低地になった内陸部を上手く交差させて、戦略度のバランスをとっている。断崖美の２ホールも十二分に凄いが、たとえば10番（572ヤード・パー５）は、プッシュアウトした右の法面が、原地型の地表を剥いだだけの手掴みの面白さがいい。広いフェアウェイをひたすらストレートに延した12番（412ヤード・パー４）も殆ど手つかずの不作爲の魅力、ひたすら真っ直ぐというシンプルスさが、プレーする人をヒロイックにする。リンクスの先輩スコットランドにも、こんなホールはそんなに多くはない。<br />
　このように内陸部の各ホールも悪くはない。しかしザ・サザンリンクスの評価を高めているのは、断崖越えの２ホールである。今回は、その７、８番ホールを紹介する。<br />
　７番ホール（418ヤード・パー４）遥か向うの断崖上にグリーンが見える。テイとの間には約418ヤードの太平洋と50メートルの断崖が挟まれていて、むろん１オンは無理。フェアウェイは左廻りでグリーンへ伸びて、幅員は十分に広いがグリーンへ約５メートルの上り坂だ。２オンには幸運が必要だ。第１打は左フェアウェイへ狙うわけだが、飛ばし屋ほど右の方へ大きく海を越える。自信のないプレーヤーは、テイの直ぐ左下のフェアウェイへ少しばかり飛せば安全。しかしそれでは５メートルもの右上りスロープのフェアウェイで、３オンは覚束かないし、７番ホールでプレーする意味がない。ここでは冒険しよう。コルト＆アリソン理論の対角線ハザードに、太平洋の大断崖を当てはめた傑作ホールである。自社設計の陰にかくれた設計者の個人名を知りたくなる…。<br />
　８番（181ヤード、パー３）ここはバックテイから打ちたい。テイは、太平洋に突き出した断崖上にある。181ヤード先のグリーンは40メートルの断崖上で表面は見えない。ドライバーでも届きそうにない。アゲンストの風に、雨も降り始めた。足が竦む。諦めて120ヤードのレギュラーテイに移った。グリーンを見下すテイ位置から７番アイアンで、エプロンまで運んだ。筆者の８番ホール・スペクタクル体験である。<br />
　なおオープン後の改造で、現在のホール・ルーティングは、インコースの16番（パー４）　17番（パー３）　18番（パー４）も、断崖越えショットはないものの、右側に太平洋を見ながら打ちつないで進む雄大な展開の断崖上シーサイドリンクスとなっている。</p>
<p>所在地　　　　　　沖縄県島尻郡八重瀬町字玻名城697番地<br />
コース規模　　　18ホール・7030ヤード・パー72　<br />
設計　　　　　　　　㈱琉球リゾート<br />
コースレート 　　未査定<br />
開場日　　　　　　昭和63年12月１日<br />
経営　　　　　　　　㈱琉球リゾート　→　㈱アコーディアゴルフ</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>第63回　キングフィールズゴルフクラブ</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=689</link>
		<comments>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=689#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 17 Apr 2012 00:55:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=689</guid>
		<description><![CDATA[月例競技はいつも満員
　アスリートの多いメンバー構成
　最近、キングフィールズゴルフクラブの人気上昇が話題になっている。
　同コースは、平成18年から平成23年までの６年間、日本プロゴルフ界のツアー機構（ＪＧＴＯ）プロ協会（ＰＧＡ）女子プロ協会（ＬＰＧＡ）の３ツアー対抗競技（日立後援）の会場となった。そして平成23年９月８日~11日には、日本女子プロゴルフ選手権大会(コニカミノルタ杯)を開催した。ともに試合はテレビで全国中継された。当然キングフィールズの名は全国区になる。来場者が目に見えて増え、会員権相場値も上昇する。コースの高い戦略性は、３ツアー対抗で証明された。さらに日本女子プロ選手権に際しては、ＬＰＧＡの小林浩美会長は、「改造は不要、今のまま利用させて欲しい」という申し出だったと鈴木安永社長に聞いた。
　それでははて？何が、キングフィールズ人気を刺激しているのだろうか。
　会員権相場表を見てみよう。ゴルフダイジェスト誌４月２４日号誌上での相場値は、430万円。千葉県下では、鷹之台1700万円、我孫子980万円、袖ヶ浦（共）495万円に続いて第4位である。自他共に認める県下の名門千葉ＣＣ345万円の上にある。
　人気の理由を、会員権業者は、会員数が871名と少ない。日本女子プロ、３ツアー対抗の効果と指摘。市場では買いが“売り待ち”状況だ。
　経営トップの鈴木安永社長は、「当クラブにはアスリートゴルファーが多い。月例競技は毎回満員の状況です」と語る。それも一因か。メンバーは東京在住が中心、世田谷の人が多いそうだ。
　
新世紀と共に「新生」へ
　
キングフィールズＧＣは、平成13年（2001年）、磯子ＣＣグループの㈱アークスが経営継承している。21世紀とともに生れ変わったのである。
　前身は、福島中心に店舗を展開する藤越グループが、昭和60年11月１日に開場した藤越キングツリーフィールズだった。
　５番ティ近くに祠があり、巨木が数本取り囲んでいる。マテバシー（全手葉椎）という椎の木である。それをゴルフ場では、“大王樹”キングツリーと呼ばせ、クラブ名を「藤越キングツリーフィールズ｣と呼称したが、間もなく長すぎるとして、キングフィールズに変更したものである。
　18ホールズは、どう造られてきたか。
　与えられた33万坪に、18ホールをどう並べるか、ルーティングを描いたのは、米国の設計家チーム・ベンツ・アンド・ポーレットだった。ついで各ホールの意匠、造型と戦略の詳細設計は、当時“ウォーター・ランドスケープ（水景）設計”で売り出し中の設計家小林光昭。さらに平成13年11月経営が現会社に継承された以後は、龍ヶ崎ＣＣ設計、造成、管理で井上誠一の下で働いた経験を持つ設計家大久保昌が、コース改修、改造で働いている。
　小林は、神奈川県のレイクウッドＧＣで、“水の魔術師”といわれた米国人設計家テッド・ロビンソンの下で働いたので、その手法を学び、いわば“日本の水の魔術師”だった。当然キングフィールズのコースでも、眺めでも攻めてもウォーターホールが、人気を集める。その中心が、大池を挟んで、二つの水景ホールを、卍巴（まんじともえ）型に絡ませて妙の、17番、18番ホールである。
　
１７、１８番、卍巴型に絡む水景の妙
　
　17番（547Ｙ・Ｐ5）6～7メートル近く高いティグラウンドから、右に大池、杉林を見下し、フェアウェイは250ヤード直線で延びて右へ、殆ど直角にドッグレッグする豪快な打下しパー５。並みのプレーヤーは右のバンカーを用心しながら直線でフェアウェイ中央狙い。第２打で右折して260～270ヤード残るか。
　飛距離自慢の人は第１打で右杉林は楽に越せるし、さらに強打の人は、右池越えも期待できる。成功すれば残り第２打はグリーンまで130ヤード。だが失敗、池ポチャの危険が多い。
　グリーンは約５メートル高の丘の上、しかもグリーン面が見えないので、アマチュアには３オン狙いはやさしくはない。
　18番（419Ｙ・Ｐ４）17番グリーンに隣接した高いティから、約260メートル先、右折したフェアウエイに向けて大きく打下ろす。狙いは、前方右へ延びるフェアウェイ左側二つのバンカー。失敗すれば池またはその手前のラフから第２打を狙うことに。飛距離の出ない人は、第１打を真っ直ぐフェアウェイに打ち下し、第２打で右折、３オン狙いが賢い。グリーンは受けているが、右の部分は池側へ速いので要注意。グリーンから遠い第２打は冒険の２オン狙いよりも、慎重に寄せて、さらにもう一度慎重にセントアンドリュース・ランアップショット（以下略してｓｔ）の第３打でピンぴたりを狙うか、判断の仕所である。
　ウォーターホールの２ホールを卍巴型に絡ませて戦略ホールの絶頂感を演出してみせたのが、この２ホールの魅力。さらにそのふたつを、７～８メートルの高所からドライブさせているのが心憎い。
　11番（201Ｙ・パー３）見事にデザインされた渚のバンカーと大池を越えて、広いグリーンへ打つ美しいパー３。グリーンは目立ったアップスロープで、ボールは止りやすい。逆に大池を用心して、ピン奥に大きくオーバーしたボールは、戻しのパットが難しい。しかし慎重に読むと、グリーンは右へ開いている。池、バンカー越えにこだわらず、第１打を敢えて右のフェアウェイ（ラフ）に落し、第２打のｓｔショットで寄せてパーセーブという戦略もある。これは筆者の成功体験である。
　（因みに、セントアンドリウス・ランアップショットとは、オールドコース・17番ロードホールで、横切って置かれたグリーンを、第２打でバンカー越えにまともに狙わず、敢えてグリーンの入り口近くへ寄せ、第３打でピンに寄せ、パーセーブする戦略である）
　９番（438Ｙ・パー４）は、池越えではないが、第２打が軽く右ドッグレッグし、さらにグリーンが右斜めに首を振り、前に深いアリソンバンカーを構えているので、右ピンの場合、冒険しての第２打狙いは危険。グリーン入口に落して第３打のｓｔショットが有効になる。
　遡れば、コルト＆アリソンが発明した対角線ハザードの戦略性が随所に応用されているのが、このコースの特徴であり魅力である。飛距離も必要、しかし緻密な戦略判断も求められる。アスリートゴルファーが多く集る理由である。
　
　
所在地　　　　　　千葉県市原市新巻377
コース規模　　　18ホール・7091ヤード・パー72　
コースレート 　　72.8
設計者　　　　　　ベンツ&#38;ポーレット
　　　　　　　　　　（改造設計）大久保　昌
2011 　日本女子プロ選手権成績
優勝　　三塚優子　282　67　71　75　69　　－６
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>月例競技はいつも満員<br />
　アスリートの多いメンバー構成</strong></p>
<div id="attachment_691" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini11.jpg"><img class="size-medium wp-image-691" title="キングフィールズゴルフクラブ　１８番グリーンからクラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini11-300x199.jpg" alt="キングフィールズゴルフクラブ　１８番グリーンからクラブハウス" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">キングフィールズゴルフクラブ　１８番グリーンからクラブハウス</p></div>
<p id="[object]">　最近、キングフィールズゴルフクラブの人気上昇が話題になっている。<br />
　同コースは、平成18年から平成23年までの６年間、日本プロゴルフ界のツアー機構（ＪＧＴＯ）プロ協会（ＰＧＡ）女子プロ協会（ＬＰＧＡ）の３ツアー対抗競技（日立後援）の会場となった。そして平成23年９月８日~11日には、日本女子プロゴルフ選手権大会(コニカミノルタ杯)を開催した。ともに試合はテレビで全国中継された。当然キングフィールズの名は全国区になる。来場者が目に見えて増え、会員権相場値も上昇する。コースの高い戦略性は、３ツアー対抗で証明された。さらに日本女子プロ選手権に際しては、ＬＰＧＡの小林浩美会長は、「改造は不要、今のまま利用させて欲しい」という申し出だったと鈴木安永社長に聞いた。<br />
　それでははて？何が、キングフィールズ人気を刺激しているのだろうか。<br />
　会員権相場表を見てみよう。ゴルフダイジェスト誌４月２４日号誌上での相場値は、430万円。千葉県下では、鷹之台1700万円、我孫子980万円、袖ヶ浦（共）495万円に続いて第4位である。自他共に認める県下の名門千葉ＣＣ345万円の上にある。<br />
　人気の理由を、会員権業者は、会員数が871名と少ない。日本女子プロ、３ツアー対抗の効果と指摘。市場では買いが“売り待ち”状況だ。<br />
　経営トップの鈴木安永社長は、「当クラブにはアスリートゴルファーが多い。月例競技は毎回満員の状況です」と語る。それも一因か。メンバーは東京在住が中心、世田谷の人が多いそうだ。<br />
　<br />
<strong>新世紀と共に「新生」へ<br />
</strong>　<br />
キングフィールズＧＣは、平成13年（2001年）、磯子ＣＣグループの㈱アークスが経営継承している。21世紀とともに生れ変わったのである。<br />
　前身は、福島中心に店舗を展開する藤越グループが、昭和60年11月１日に開場した藤越キングツリーフィールズだった。<br />
　５番ティ近くに祠があり、巨木が数本取り囲んでいる。マテバシー（全手葉椎）という椎の木である。それをゴルフ場では、“大王樹”キングツリーと呼ばせ、クラブ名を「藤越キングツリーフィールズ｣と呼称したが、間もなく長すぎるとして、キングフィールズに変更したものである。</p>
<p>　18ホールズは、どう造られてきたか。<br />
　与えられた33万坪に、18ホールをどう並べるか、ルーティングを描いたのは、米国の設計家チーム・ベンツ・アンド・ポーレットだった。ついで各ホールの意匠、造型と戦略の詳細設計は、当時“ウォーター・ランドスケープ（水景）設計”で売り出し中の設計家小林光昭。さらに平成13年11月経営が現会社に継承された以後は、龍ヶ崎ＣＣ設計、造成、管理で井上誠一の下で働いた経験を持つ設計家大久保昌が、コース改修、改造で働いている。<br />
　小林は、神奈川県のレイクウッドＧＣで、“水の魔術師”といわれた米国人設計家テッド・ロビンソンの下で働いたので、その手法を学び、いわば“日本の水の魔術師”だった。当然キングフィールズのコースでも、眺めでも攻めてもウォーターホールが、人気を集める。その中心が、大池を挟んで、二つの水景ホールを、卍巴（まんじともえ）型に絡ませて妙の、17番、18番ホールである。<br />
　<br />
<strong>１７、１８番、卍巴型に絡む水景の妙<br />
</strong>　</p>
<div id="attachment_693" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini21.jpg"><img class="size-medium wp-image-693" title="キングフィールズゴルフクラブ　１７番ホール左正面フェアウェイドッグレッグして右奥は１７番グリーンを望む。右下手前は１８番グリーン" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini21-300x199.jpg" alt="キングフィールズゴルフクラブ　１７番ホール左正面フェアウェイドッグレッグして右奥は１７番グリーンを望む。右下手前は１８番グリーン" width="300" height="199" /></a><p class="wp-caption-text">キングフィールズゴルフクラブ　１７番ホール左正面フェアウェイドッグレッグして右奥は１７番グリーンを望む。右下手前は１８番グリーン</p></div>
<p>　17番（547Ｙ・Ｐ5）6～7メートル近く高いティグラウンドから、右に大池、杉林を見下し、フェアウェイは250ヤード直線で延びて右へ、殆ど直角にドッグレッグする豪快な打下しパー５。並みのプレーヤーは右のバンカーを用心しながら直線でフェアウェイ中央狙い。第２打で右折して260～270ヤード残るか。<br />
　飛距離自慢の人は第１打で右杉林は楽に越せるし、さらに強打の人は、右池越えも期待できる。成功すれば残り第２打はグリーンまで130ヤード。だが失敗、池ポチャの危険が多い。<br />
　グリーンは約５メートル高の丘の上、しかもグリーン面が見えないので、アマチュアには３オン狙いはやさしくはない。<br />
　18番（419Ｙ・Ｐ４）17番グリーンに隣接した高いティから、約260メートル先、右折したフェアウエイに向けて大きく打下ろす。狙いは、前方右へ延びるフェアウェイ左側二つのバンカー。失敗すれば池またはその手前のラフから第２打を狙うことに。飛距離の出ない人は、第１打を真っ直ぐフェアウェイに打ち下し、第２打で右折、３オン狙いが賢い。グリーンは受けているが、右の部分は池側へ速いので要注意。グリーンから遠い第２打は冒険の２オン狙いよりも、慎重に寄せて、さらにもう一度慎重にセントアンドリュース・ランアップショット（以下略してｓｔ）の第３打でピンぴたりを狙うか、判断の仕所である。<br />
　ウォーターホールの２ホールを卍巴型に絡ませて戦略ホールの絶頂感を演出してみせたのが、この２ホールの魅力。さらにそのふたつを、７～８メートルの高所からドライブさせているのが心憎い。<br />
　11番（201Ｙ・パー３）見事にデザインされた渚のバンカーと大池を越えて、広いグリーンへ打つ美しいパー３。グリーンは目立ったアップスロープで、ボールは止りやすい。逆に大池を用心して、ピン奥に大きくオーバーしたボールは、戻しのパットが難しい。しかし慎重に読むと、グリーンは右へ開いている。池、バンカー越えにこだわらず、第１打を敢えて右のフェアウェイ（ラフ）に落し、第２打のｓｔショットで寄せてパーセーブという戦略もある。これは筆者の成功体験である。<br />
　（因みに、セントアンドリウス・ランアップショットとは、オールドコース・17番ロードホールで、横切って置かれたグリーンを、第２打でバンカー越えにまともに狙わず、敢えてグリーンの入り口近くへ寄せ、第３打でピンに寄せ、パーセーブする戦略である）<br />
　９番（438Ｙ・パー４）は、池越えではないが、第２打が軽く右ドッグレッグし、さらにグリーンが右斜めに首を振り、前に深いアリソンバンカーを構えているので、右ピンの場合、冒険しての第２打狙いは危険。グリーン入口に落して第３打のｓｔショットが有効になる。<br />
　遡れば、コルト＆アリソンが発明した対角線ハザードの戦略性が随所に応用されているのが、このコースの特徴であり魅力である。飛距離も必要、しかし緻密な戦略判断も求められる。アスリートゴルファーが多く集る理由である。</p>
<p>　<br />
　<br />
所在地　　　　　　千葉県市原市新巻377<br />
コース規模　　　18ホール・7091ヤード・パー72　<br />
コースレート 　　72.8<br />
設計者　　　　　　ベンツ&amp;ポーレット<br />
　　　　　　　　　　（改造設計）大久保　昌<br />
2011 　日本女子プロ選手権成績<br />
優勝　　三塚優子　282　67　71　75　69　　－６</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>第62回　西宮カントリー倶楽部</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=681</link>
		<comments>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=681#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 02 Apr 2012 05:47:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

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		<description><![CDATA[西宮ＣＣは“関西の小金井ＣＣ”
　ひと昔前、西宮カントリー倶楽部は、“関西の小金井ＣＣ”と言われた時期があった。小金井ＣＣは、関東地区会員権市場で、相場値トップを他に譲ったことがない。関西でも、西宮ＣＣがそうだった。今はどうだろうか。
　関東地区では、今も小金井ＣＣ4400万円で第１位、以下２位よみうりＧ2500万円、鷹之台ＣＣ1700万円の順、関西地区も、西宮ＣＣ800万円でトップ、以下奈良国際ＧＣ750万円、宝塚ＧＣ600万円の順で、やはり依然として西宮ＣＣが第１位である。
　第１位西宮ＣＣと３位宝塚ＧＣは、生垣ひとつを境にした隣同士のゴルフ場である。そしてともに畿内１、２位の名門・人気倶楽部である。その秘密は何か。
　東は商工業都市の大阪、尼崎、西は国際港湾都市神戸に挟まれた芦屋、宝塚、西宮の３都市は、戦前、戦後を通して“阪・神間モダニズムの街”として羨望の眼で見られてきた。西宮ＣＣと宝塚ＧＣはそれら３都市の上方に隣り合って展開している。上流階級というゴルフの高級需要が目の前に広がっているようなものであった。
西宮ＣＣ一番人気の秘密
　西宮市の西北甲山の麓は、昭和27～29年頃には、伊丹の警察予備隊（現在の自衛隊）の演習に使われることが多く、遂には、正式演習場にしようという動きが出ていた。当時の西宮市長辰馬卯一郎は、大慌てした。
　戦前の西宮市は、ハイカラなライフスタイルの都市として人気を集めていたが、昭和20年８月５日の米機大空襲で市街地の60％を失った。その復興が、辰馬市長の第一の政治目標だ。彼は、観光文化都市構想を立案、その一環として甲山ゴルフクラブを造る計画があった。
　大慌ての辰馬市長は、「そこにはゴルフ場計画がある」と抗議。市が中心の建設計画だから公益法人がふさわしいと早速に申請書を提出、僅か２週間で、昭和29年11月30日社団法人西宮カントリー倶楽部の認可を獲得して見せた。さらに市長自ら陣頭に立って、「入りなはれ」「入りなはれ」と、会員募集に走り廻ったと、50年史が書き止めている。
　起工式は、昭和29年10月13日。コース設計は、井上誠一。コース予定地を初めて視察した井上は、「私の第一印象は之はとても大変な仕事だということだった」と後で会報『西宮』に書いている。用意された18万坪には、仁川の河川敷、宝塚～六甲道路の一部、使いにくい急傾斜面なども含まれていて、利用できるのは16万坪、しかも花崗岩地帯の土質だ。5000ヤード級の18ホールがやっと、そこに井上が苦労して6646ヤードの18ホールを描いたのは、西宮市の中心から僅か20分、京阪神の大都市からも交通至便、標高200～250メートルの高燥地で、六甲の山なみを背に、東南方に大阪平野を見下す眺望など、高いコース利用率が期待できたからだった、と設計者は告白している。
　工事は意外に順調、昭和30年11月17日、９ホールを仮開場。始球式で、最初に甲山（かぶとやま）大師の方向へ祈ってから、ドライバーを振ったのは、コース建設、会員募集に奔走した辰馬市長だった。ゴルフボールを触ったこともない人だった。本開場は、昭和31年４月15日。高麗芝とイタリアンライグラスの２グリーン、打ち上げ９ホール、打下し５ホール、フラット４ホールのコースが生れた。予断を持たずに回った印象は、やや狭いが各ショット考えさせられる18ホールで、アウトは変化はあるが仁川を挟んだガーデンコースタイプ、インコースは、急斜面利用の打ち下しや崖越えもあり変化が魅力だった。
　設計者は、12、13、14、16番ホールを併行折り返しにしたことを気にしているが、最終的には16万坪に6600ヤード級の18ホールをつくるには、「このレイアウト以外に良策はない」と言い切っている。筆者の印象では、中級ハンディの熟練プレーヤーには、考えて、攻めておもしろい一級品という結論である。
　初代理事長和田薫（阪急電鉄社長）は、
　「やさしいコース、ファミリーなクラブハウス、婦人のプレーを制限しないクラブ」と、ユニークな名門宣言をしている。
端正に生れ変った“１グリーン西宮ＣＣ”
　開場から50年。平成18年、開場50周年事業として、井上誠一設計の２グリーンは、全18ホールを、ベント（L93）ワングリーンに全面改造された。改造設計は、廣野ＧＣ改造を手がけた大橋一元（廣野ＧＣキャプテン）。
　井上設計は、二つのグリーンを振り分けた２グリーンだったので、サブグリーンを消去し、本グリーンを残せばいいという説もあったが、会員93％の意見で、１月から６月までコースを全面クローズして、各ホールに新しいワングリーンが造られた。新しいグリーンは、井上設計の本グリーンの姿を生かしながら、平均20％大きくした。それでも480平方メートルと平均より小さめ、バンカーの数は83個で２グリーン時代と同じである。
　「グリーンの数は36から18と半分になったのにバンカーの数は83と変わらず。その分グリーンまわりは厳しくなったということです」
　と、１ラウンド59のプロ記録を持っていた入江勉支配人は語っている。
　14番グリーンは、奥の４分の１が向う下りになっていたが、20％エンラージしたことで向う下りの部分がより広く、より急に見えるようになり、ピンが後に立ったときの緊迫感でさらに難しくなった。
　これらの結果、「西宮ＣＣは難しくなった」と評判になり、かえって人気が上ったそうだ。むろん狙い通りの効果も多かった。何よりもティからグリーンまでストレートに見通せるホールが主流になった結果、以前よりも、各ホールが端正に見えるようになった。２グリーンで狭苦しかったグリーンまわりも大ぶりとなり、花道はグリーン正面に広く、第２打点からのイメージメークが楽しいコースになっている。
　
所在地　　　　　　兵庫県西宮市仁川町6－19－7
コース規模　　　18ホール・6704ヤード・パー72　
コースレート 　　72.4
設計者　　　　　　井上誠一
開場日  　　　  昭和30年11月27日
コースレコード  （アマ）入江　勉　69
　　　　　　　 　　 （プロ）中村　通　63
新ベント１グリーン  （アマ）小野一郎　71
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p id="[object]"><strong>西宮ＣＣは“関西の小金井ＣＣ”</strong></p>
<div id="attachment_684" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini1.jpg"><img class="size-medium wp-image-684" title="西宮カントリー倶楽部　ハウスを遠望する。" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini1-300x213.jpg" alt="西宮カントリー倶楽部　ハウスを遠望する。" width="300" height="213" /></a><p class="wp-caption-text">西宮カントリー倶楽部　ハウスを遠望する。</p></div>
<p id="[object]">　ひと昔前、西宮カントリー倶楽部は、“関西の小金井ＣＣ”と言われた時期があった。小金井ＣＣは、関東地区会員権市場で、相場値トップを他に譲ったことがない。関西でも、西宮ＣＣがそうだった。今はどうだろうか。<br />
　関東地区では、今も小金井ＣＣ4400万円で第１位、以下２位よみうりＧ2500万円、鷹之台ＣＣ1700万円の順、関西地区も、西宮ＣＣ800万円でトップ、以下奈良国際ＧＣ750万円、宝塚ＧＣ600万円の順で、やはり依然として西宮ＣＣが第１位である。<br />
　第１位西宮ＣＣと３位宝塚ＧＣは、生垣ひとつを境にした隣同士のゴルフ場である。そしてともに畿内１、２位の名門・人気倶楽部である。その秘密は何か。<br />
　東は商工業都市の大阪、尼崎、西は国際港湾都市神戸に挟まれた芦屋、宝塚、西宮の３都市は、戦前、戦後を通して“阪・神間モダニズムの街”として羨望の眼で見られてきた。西宮ＣＣと宝塚ＧＣはそれら３都市の上方に隣り合って展開している。上流階級というゴルフの高級需要が目の前に広がっているようなものであった。</p>
<p id="[object]"><strong>西宮ＣＣ一番人気の秘密</strong></p>
<p>　西宮市の西北甲山の麓は、昭和27～29年頃には、伊丹の警察予備隊（現在の自衛隊）の演習に使われることが多く、遂には、正式演習場にしようという動きが出ていた。当時の西宮市長辰馬卯一郎は、大慌てした。<br />
　戦前の西宮市は、ハイカラなライフスタイルの都市として人気を集めていたが、昭和20年８月５日の米機大空襲で市街地の60％を失った。その復興が、辰馬市長の第一の政治目標だ。彼は、観光文化都市構想を立案、その一環として甲山ゴルフクラブを造る計画があった。<br />
　大慌ての辰馬市長は、「そこにはゴルフ場計画がある」と抗議。市が中心の建設計画だから公益法人がふさわしいと早速に申請書を提出、僅か２週間で、昭和29年11月30日社団法人西宮カントリー倶楽部の認可を獲得して見せた。さらに市長自ら陣頭に立って、「入りなはれ」「入りなはれ」と、会員募集に走り廻ったと、50年史が書き止めている。<br />
　起工式は、昭和29年10月13日。コース設計は、井上誠一。コース予定地を初めて視察した井上は、「私の第一印象は之はとても大変な仕事だということだった」と後で会報『西宮』に書いている。用意された18万坪には、仁川の河川敷、宝塚～六甲道路の一部、使いにくい急傾斜面なども含まれていて、利用できるのは16万坪、しかも花崗岩地帯の土質だ。5000ヤード級の18ホールがやっと、そこに井上が苦労して6646ヤードの18ホールを描いたのは、西宮市の中心から僅か20分、京阪神の大都市からも交通至便、標高200～250メートルの高燥地で、六甲の山なみを背に、東南方に大阪平野を見下す眺望など、高いコース利用率が期待できたからだった、と設計者は告白している。<br />
　工事は意外に順調、昭和30年11月17日、９ホールを仮開場。始球式で、最初に甲山（かぶとやま）大師の方向へ祈ってから、ドライバーを振ったのは、コース建設、会員募集に奔走した辰馬市長だった。ゴルフボールを触ったこともない人だった。本開場は、昭和31年４月15日。高麗芝とイタリアンライグラスの２グリーン、打ち上げ９ホール、打下し５ホール、フラット４ホールのコースが生れた。予断を持たずに回った印象は、やや狭いが各ショット考えさせられる18ホールで、アウトは変化はあるが仁川を挟んだガーデンコースタイプ、インコースは、急斜面利用の打ち下しや崖越えもあり変化が魅力だった。<br />
　設計者は、12、13、14、16番ホールを併行折り返しにしたことを気にしているが、最終的には16万坪に6600ヤード級の18ホールをつくるには、「このレイアウト以外に良策はない」と言い切っている。筆者の印象では、中級ハンディの熟練プレーヤーには、考えて、攻めておもしろい一級品という結論である。<br />
　初代理事長和田薫（阪急電鉄社長）は、<br />
　「やさしいコース、ファミリーなクラブハウス、婦人のプレーを制限しないクラブ」と、ユニークな名門宣言をしている。</p>
<p id="[object]"><strong>端正に生れ変った“１グリーン西宮ＣＣ”</strong></p>
<div id="attachment_685" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini2.jpg"><img class="size-medium wp-image-685" title="西宮カントリー倶楽部　１０番ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/04/mini2-300x212.jpg" alt="西宮カントリー倶楽部　１０番ホール" width="300" height="212" /></a><p class="wp-caption-text">西宮カントリー倶楽部　１０番ホール</p></div>
<p id="[object]">　開場から50年。平成18年、開場50周年事業として、井上誠一設計の２グリーンは、全18ホールを、ベント（L93）ワングリーンに全面改造された。改造設計は、廣野ＧＣ改造を手がけた大橋一元（廣野ＧＣキャプテン）。<br />
　井上設計は、二つのグリーンを振り分けた２グリーンだったので、サブグリーンを消去し、本グリーンを残せばいいという説もあったが、会員93％の意見で、１月から６月までコースを全面クローズして、各ホールに新しいワングリーンが造られた。新しいグリーンは、井上設計の本グリーンの姿を生かしながら、平均20％大きくした。それでも480平方メートルと平均より小さめ、バンカーの数は83個で２グリーン時代と同じである。<br />
　「グリーンの数は36から18と半分になったのにバンカーの数は83と変わらず。その分グリーンまわりは厳しくなったということです」<br />
　と、１ラウンド59のプロ記録を持っていた入江勉支配人は語っている。<br />
　14番グリーンは、奥の４分の１が向う下りになっていたが、20％エンラージしたことで向う下りの部分がより広く、より急に見えるようになり、ピンが後に立ったときの緊迫感でさらに難しくなった。<br />
　これらの結果、「西宮ＣＣは難しくなった」と評判になり、かえって人気が上ったそうだ。むろん狙い通りの効果も多かった。何よりもティからグリーンまでストレートに見通せるホールが主流になった結果、以前よりも、各ホールが端正に見えるようになった。２グリーンで狭苦しかったグリーンまわりも大ぶりとなり、花道はグリーン正面に広く、第２打点からのイメージメークが楽しいコースになっている。<br />
　<br />
所在地　　　　　　兵庫県西宮市仁川町6－19－7<br />
コース規模　　　18ホール・6704ヤード・パー72　<br />
コースレート 　　72.4<br />
設計者　　　　　　井上誠一<br />
開場日  　　　  昭和30年11月27日<br />
コースレコード  （アマ）入江　勉　69<br />
　　　　　　　 　　 （プロ）中村　通　63<br />
新ベント１グリーン  （アマ）小野一郎　71</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>第61回　高坂カントリークラブ</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=670</link>
		<comments>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=670#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 19 Mar 2012 05:52:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=670</guid>
		<description><![CDATA[プロローグ
　今年で第40回を迎える日本プロツア機構のメイン競技「フジサンケイクラシック」が、昭和48年（1973年）第１回大会を開いたのは、高坂カントリークラブ米山コースだった。グラハム・マーシュ（優勝）が中村通を１点差に押さえて優勝している。
　大熱戦は、フジテレビで全国放送され高坂ＣＣの名は、日本中に広まった。
創業から開場まで
　時代は、昭和20年代に溯る。
　その日馬場宗光は、フィリピンのバギオにいた。彼は、電源開発関係の技術者で、東南アジアに出かけることが多かった。フィリピンにゴルフが入ったのは、20世紀に入ってから。アメリカの支配が続いたので、ゴルフは比較的広く楽しまれ、50コース余のゴルフ場が生れた。馬場にもゴルフの機会が多かった。ある時、山の景色がいいので評判のコースでプレーした後、
　「ここは、故郷の比企丘陵の山に似ている。比企丘陵にもゴルフ場をつくれるということか」
　と直感した。
　実現へ動き出すのは、中村寅吉、小野光一がカナダカップに優勝、ゴルフブームの契機になった昭和32年10月だった。馬場は、土木建築工事の調査設計を目的として設立していた東京工務㈱の社名と目的をゴルフ場建設、経営を目的とする東観光開発㈱と変更、高坂ＣＣの建設に動き出した。平山復二郎が協力した。
　場所は、東上線高坂駅から車で５分、比企丘陵が平野に沈み込もうとする東端のおだやかな地形の山地だった。馬場は、平山の弟で元運輸次官で川崎国際ＣＣ理事長平山孝に用地調査を依頼。孝は、川崎国際ＣＣでグリーンキーパーでコース設計を始めた富沢誠造を伴って現地に入った。富沢の診断は、「地形はいいが土質が悪い」ときびしかった。強い粘土質の土に砂利が混入していてコンクリートのように堅い。「これでは造成は難しい」。しかし馬場は、ゴルフ場を造れないことはない、と諦めなかった。
　昭和33年４月、起工式を挙行。鹿島建設の支援を受けて東観光開発を、50万円から200万円に増資。鹿島建設から４名の役員が入った。
　事業は先へ、快調に展開する。34年１月９ホール完成、７月米山コース18ホール・6835ヤード・パー72が揃った。
　昭和35年１月、会員組織高坂カントリークラブが平山孝理事長で発足。３月岩殿コースのインコース着工、10月完成、27ホール営業を開始する。
　昭和37年８月、資本金200万円は800万円に大幅増資され、経営権は馬場宗光から鹿島建設に継承された。同じ８月岩殿コースアウト完成、18ホール・6825ヤード・パー72が揃い、全36ホールとなる。住友グループも昭和38年２月、正会員（100万円）360口募集のうち213口を協力、昭和39年１月理事長に、住友銀行頭取堀田庄三が就任する。これら大資本の相次ぐ資金協力によって、透水性の悪いフェアウェイには、２万メートルの排水暗渠がめぐらされ、雑草の生えたフェアウェイは、緑のカーペットに生れ変って行った。
米山、岩殿コース３６ホールの魅力
　〔米山コース〕（18ホール・6773ヤード・パー72。設計・富沢誠造）。
　富沢誠造は、高坂ＣＣを設計したとき川崎国際ＣＣ（現、生田緑地ゴルフ場）のグリーンキーパーだった。そこには名匠井上誠一がいて、その影響を受けたが、井上の近代的、高度なコースに対して富沢は、アベレージ級が楽しめる穏健なコースを狙った。その意図が折からの爆発的ゴルフブームに迎えられて、富沢設計のコースは、昭和35～50年の間に80コースを超えた（100コース説も）。高坂ＣＣ米山コースは、彼の処女作である。
　米山コースは、開場当時「難しいコースだ」と評判をとった。難ホールを挙げるとすれば、フジサンケイクラシックの頃、取材班の中で、「あのホールが終わるまで勝者は誰か決まらない」といわれた17番（485ヤード・パー５）だろう。プロならイーグルもあるがボギーも。アベレージでも、幸運に正確なショットを連ねられたらパー、強気になりすぎたらダブルボギー、最悪トリプルも、というホールだ。ヤーデージはパー５にしては短いが、全体にフェアウェイは馬の背でグリーンへ向ってアップスロープ、狭い。そして左側はＯＢ線が続く。馬の背中の左半分へ止ったボールは必ずフックボール・ライになる。ボールの飛ぶ先はＯＢ線だ…。どこまでもセンターラインに忠実に、それが17番ホールの攻め方である。
　米山コースで難しいのは、ドナルド・ロス型（王冠型）のグリーンへ乗せるショットだ。グリーンは皿を伏せたような型で置かれていて、中心を外れたボールは、外へ外へと誘われ、流れる。ピンが外近く立ったとき、それを狙うのに、人は不安に捉われるのだった。挙げれば１、２、６番が特に難しい。
　
　平成８年秋、米山コースをラウンドした。昭和36～40年頃親しんだコースだったから、36年ぶりである。米山コースの樹林は大きく育ち、一種審美的な雰囲気を纏って広がっていたまるで林間コースだ。「林間コース」という形容詞を最初に使ったのは富沢誠造の代表作船橋ＣＣ（千葉県）である。同じ富沢の処女作が、目の前に“丘の上の林間コース”として秋色の中に輝いて見えた。
　〔岩殿コース〕（18ホール・6565ヤード・パー72）
　米山コースから見て、進入路の左側に隣接して造られた18ホールだ。当初設計者は、吉崎満雄とされていたが、昭和60年大改造以後は東観光開発即ち自社設計。吉崎は、設計者下山忠廉の弟子。高坂ＣＣ建設時はグリーンキーパー、コース部長を勤め、鹿島建設の応援で芝の新種スプリングベントグラスを開発、その後独立して「スプリングス」グループのゴルフ場15コースを経営していた。
　当初の岩殿コースは、ゆったりした米山コースに比べやや変化のある展開だったが、昭和60年の大改造で、よりフラットになった。しかし平坦にはなったが、戦略的な変化が消えたわけではない。たとえば７番（330ヤード・パー４）は、ヤーデージが短い分、右ドッグレッグの変化で補い、屈曲点に２個のバンカーを配置、戦略アップを図っている。
　同じ右ドッグレッグだが、４番ホールは逆だ。曲り角にはトラップはなし、しかし443ヤードとヤーデージをタフにすることで戦略的対応をしている。
　プレイアビリティが高いのは15番（570ヤード・パー５）だ。距離が18ホール中随一、それがこのホールをヒロイックにしている。ティからグリーンまで、右側に林を伴走させて、思慮を欠いた長打狙いを許さない結構も悪くない。
　
　―――――――――――――――――――――――――――
　＜フジサンケイクラシック　優勝スコア＞
　1973　グラハム・マーシュ　272－68・66・70・68　　中村通273
　1974　グラハム・マーシュ　276－71・67・71・67　　中村通277
　1975　呂良煥　　　　　　　　280－71・71・68・70　　Ｇ・マーシュ284
　1976　鈴木規夫　　　　　 　279－71・70・72・66　　呂良煥279 （プレーオフ）
　1977　宮本康弘　　　　　　 287－75・70・72・70　　山本善隆288
　1978　島田幸作　　　　　　 278－70・71・69・68　　青木功281
　―――――――――――――――――――――――――――
　
所在地　　　　　　埼玉県東松山市大字高坂1916－1
コース規模　　　米山18ホール・6773ヤード・パー72　
　　　　　　　 　　 岩殿18ホール・6565ヤード・パー72　
設計者　　　　　　米山コース　　富沢誠造
　　　　　　　 　　 岩殿コース　　東観光開発（自社）
コースレート 　　米山　72.4　　　　岩殿　71.2
開場    　　　  昭和33年11月９日
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>プロローグ</strong></p>
<p>　今年で第40回を迎える日本プロツア機構のメイン競技「フジサンケイクラシック」が、昭和48年（1973年）第１回大会を開いたのは、高坂カントリークラブ米山コースだった。グラハム・マーシュ（優勝）が中村通を１点差に押さえて優勝している。<br />
　大熱戦は、フジテレビで全国放送され高坂ＣＣの名は、日本中に広まった。</p>
<p><strong>創業から開場まで</strong></p>
<div id="attachment_674" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/03/081027_053010_course_6-1.jpg"><img class="size-medium wp-image-674" title="高坂カントリークラブ　米山コース６番" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/03/081027_053010_course_6-1-300x210.jpg" alt="高坂カントリークラブ　米山コース６番" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">高坂カントリークラブ　米山コース６番</p></div>
<p id="[object]">　時代は、昭和20年代に溯る。<br />
　その日馬場宗光は、フィリピンのバギオにいた。彼は、電源開発関係の技術者で、東南アジアに出かけることが多かった。フィリピンにゴルフが入ったのは、20世紀に入ってから。アメリカの支配が続いたので、ゴルフは比較的広く楽しまれ、50コース余のゴルフ場が生れた。馬場にもゴルフの機会が多かった。ある時、山の景色がいいので評判のコースでプレーした後、<br />
　「ここは、故郷の比企丘陵の山に似ている。比企丘陵にもゴルフ場をつくれるということか」<br />
　と直感した。<br />
　実現へ動き出すのは、中村寅吉、小野光一がカナダカップに優勝、ゴルフブームの契機になった昭和32年10月だった。馬場は、土木建築工事の調査設計を目的として設立していた東京工務㈱の社名と目的をゴルフ場建設、経営を目的とする東観光開発㈱と変更、高坂ＣＣの建設に動き出した。平山復二郎が協力した。<br />
　場所は、東上線高坂駅から車で５分、比企丘陵が平野に沈み込もうとする東端のおだやかな地形の山地だった。馬場は、平山の弟で元運輸次官で川崎国際ＣＣ理事長平山孝に用地調査を依頼。孝は、川崎国際ＣＣでグリーンキーパーでコース設計を始めた富沢誠造を伴って現地に入った。富沢の診断は、「地形はいいが土質が悪い」ときびしかった。強い粘土質の土に砂利が混入していてコンクリートのように堅い。「これでは造成は難しい」。しかし馬場は、ゴルフ場を造れないことはない、と諦めなかった。<br />
　昭和33年４月、起工式を挙行。鹿島建設の支援を受けて東観光開発を、50万円から200万円に増資。鹿島建設から４名の役員が入った。<br />
　事業は先へ、快調に展開する。34年１月９ホール完成、７月米山コース18ホール・6835ヤード・パー72が揃った。<br />
　昭和35年１月、会員組織高坂カントリークラブが平山孝理事長で発足。３月岩殿コースのインコース着工、10月完成、27ホール営業を開始する。<br />
　昭和37年８月、資本金200万円は800万円に大幅増資され、経営権は馬場宗光から鹿島建設に継承された。同じ８月岩殿コースアウト完成、18ホール・6825ヤード・パー72が揃い、全36ホールとなる。住友グループも昭和38年２月、正会員（100万円）360口募集のうち213口を協力、昭和39年１月理事長に、住友銀行頭取堀田庄三が就任する。これら大資本の相次ぐ資金協力によって、透水性の悪いフェアウェイには、２万メートルの排水暗渠がめぐらされ、雑草の生えたフェアウェイは、緑のカーペットに生れ変って行った。</p>
<p><strong>米山、岩殿コース３６ホールの魅力</strong></p>
<div id="attachment_676" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/03/081027_053010_course_6.jpg"><img class="size-medium wp-image-676" title="高坂カントリークラブ　岩殿コース６番" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/03/081027_053010_course_6-300x210.jpg" alt="高坂カントリークラブ　岩殿コース６番" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">高坂カントリークラブ　岩殿コース６番</p></div>
<p id="[object]">　〔米山コース〕（18ホール・6773ヤード・パー72。設計・富沢誠造）。<br />
　富沢誠造は、高坂ＣＣを設計したとき川崎国際ＣＣ（現、生田緑地ゴルフ場）のグリーンキーパーだった。そこには名匠井上誠一がいて、その影響を受けたが、井上の近代的、高度なコースに対して富沢は、アベレージ級が楽しめる穏健なコースを狙った。その意図が折からの爆発的ゴルフブームに迎えられて、富沢設計のコースは、昭和35～50年の間に80コースを超えた（100コース説も）。高坂ＣＣ米山コースは、彼の処女作である。<br />
　米山コースは、開場当時「難しいコースだ」と評判をとった。難ホールを挙げるとすれば、フジサンケイクラシックの頃、取材班の中で、「あのホールが終わるまで勝者は誰か決まらない」といわれた17番（485ヤード・パー５）だろう。プロならイーグルもあるがボギーも。アベレージでも、幸運に正確なショットを連ねられたらパー、強気になりすぎたらダブルボギー、最悪トリプルも、というホールだ。ヤーデージはパー５にしては短いが、全体にフェアウェイは馬の背でグリーンへ向ってアップスロープ、狭い。そして左側はＯＢ線が続く。馬の背中の左半分へ止ったボールは必ずフックボール・ライになる。ボールの飛ぶ先はＯＢ線だ…。どこまでもセンターラインに忠実に、それが17番ホールの攻め方である。<br />
　米山コースで難しいのは、ドナルド・ロス型（王冠型）のグリーンへ乗せるショットだ。グリーンは皿を伏せたような型で置かれていて、中心を外れたボールは、外へ外へと誘われ、流れる。ピンが外近く立ったとき、それを狙うのに、人は不安に捉われるのだった。挙げれば１、２、６番が特に難しい。<br />
　<br />
　平成８年秋、米山コースをラウンドした。昭和36～40年頃親しんだコースだったから、36年ぶりである。米山コースの樹林は大きく育ち、一種審美的な雰囲気を纏って広がっていたまるで林間コースだ。「林間コース」という形容詞を最初に使ったのは富沢誠造の代表作船橋ＣＣ（千葉県）である。同じ富沢の処女作が、目の前に“丘の上の林間コース”として秋色の中に輝いて見えた。<br />
　〔岩殿コース〕（18ホール・6565ヤード・パー72）<br />
　米山コースから見て、進入路の左側に隣接して造られた18ホールだ。当初設計者は、吉崎満雄とされていたが、昭和60年大改造以後は東観光開発即ち自社設計。吉崎は、設計者下山忠廉の弟子。高坂ＣＣ建設時はグリーンキーパー、コース部長を勤め、鹿島建設の応援で芝の新種スプリングベントグラスを開発、その後独立して「スプリングス」グループのゴルフ場15コースを経営していた。<br />
　当初の岩殿コースは、ゆったりした米山コースに比べやや変化のある展開だったが、昭和60年の大改造で、よりフラットになった。しかし平坦にはなったが、戦略的な変化が消えたわけではない。たとえば７番（330ヤード・パー４）は、ヤーデージが短い分、右ドッグレッグの変化で補い、屈曲点に２個のバンカーを配置、戦略アップを図っている。<br />
　同じ右ドッグレッグだが、４番ホールは逆だ。曲り角にはトラップはなし、しかし443ヤードとヤーデージをタフにすることで戦略的対応をしている。<br />
　プレイアビリティが高いのは15番（570ヤード・パー５）だ。距離が18ホール中随一、それがこのホールをヒロイックにしている。ティからグリーンまで、右側に林を伴走させて、思慮を欠いた長打狙いを許さない結構も悪くない。<br />
　<br />
　―――――――――――――――――――――――――――<br />
　＜フジサンケイクラシック　優勝スコア＞<br />
　1973　グラハム・マーシュ　272－68・66・70・68　　中村通273<br />
　1974　グラハム・マーシュ　276－71・67・71・67　　中村通277<br />
　1975　呂良煥　　　　　　　　280－71・71・68・70　　Ｇ・マーシュ284<br />
　1976　鈴木規夫　　　　　 　279－71・70・72・66　　呂良煥279 （プレーオフ）<br />
　1977　宮本康弘　　　　　　 287－75・70・72・70　　山本善隆288<br />
　1978　島田幸作　　　　　　 278－70・71・69・68　　青木功281<br />
　―――――――――――――――――――――――――――<br />
　<br />
所在地　　　　　　埼玉県東松山市大字高坂1916－1<br />
コース規模　　　米山18ホール・6773ヤード・パー72　<br />
　　　　　　　 　　 岩殿18ホール・6565ヤード・パー72　<br />
設計者　　　　　　米山コース　　富沢誠造<br />
　　　　　　　 　　 岩殿コース　　東観光開発（自社）<br />
コースレート 　　米山　72.4　　　　岩殿　71.2<br />
開場    　　　  昭和33年11月９日</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>第60回　軽井沢高原ゴルフ倶楽部</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=660</link>
		<comments>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=660#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 29 Feb 2012 08:54:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

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		<description><![CDATA[絶景－“森を着たクラブハウス”
　平成10年～17年頃、年に１回必ず軽井沢のどこかでプレーしていた。朝早い新幹線で行って、１ラウンドあるいは27ホール、終わると颯つとまた新幹線で帰る。そんなゴルフ行だった。主として相馬和胤氏（現・倶楽部理事長）の紹介で名門軽井沢ゴルフ倶楽部をプレーした。トップシーズンは無理だから、毎年６月中旬以前か９月中旬以降だった。
　そんな習慣が突然変った。軽井沢を発った足で、軽井沢高原ゴルフ倶楽部に直行、ロッジ（ホテル）に一泊して１ラウンド、という習慣に変った。軽井沢高原ＧＣの何が、筆者を惹きつけたか。そのことを書いた印象的な、筆者の当時の文章があるので、紹介する。
　　「人びとは、このコースに来ると、自分自身が森の色に染
　　まるのを感じるだろう。
　　　ここでは、クラブハウスは、まるで森を着ているように見える。スイスアルプスのそれを思わ
　　せる建物が、風景の中に溶け込んでいて、秋はバンフスプリングス、春はスイスアルプスを想
　　い出させる。そんな佇いが、他所にない軽井沢高原のもつホスピタリティである。
　　　恐らく日本のゴルフコースの中でも、出色のクラブハウス風景である。
　　　９番、17番ホールで、ボールを打ちつなぎながら次第にクラブハウスに近づいてゆく。カラマ
　　　ツの幹の間からクラブハウスの匂い姿が近づいてくる。その頃合いの微妙は、他にない感
　　　激だ。
　　　恐らく森がたっぷりのこの土地を発見した人は、絵画的な表養がある人で、迷わずここに決
　　めたに違いない、と思ったりする。
　　　キャディさんが、クラブハウスの遥か上を指さし、「ホラ、あそこを車が通る。前橋へ行く峠で
　　す」と教えてくれる。
　　　峠を頂くその山頂は、クラブハウスの背景になっていて、そのまま屏風絵である。
　　　ここは高原である。しかし強風がない。
　　　いつ来ても軟風が吹いている。－そんな空気が漂う。厚い森もあれば、10番ホールのように
　　カラマツの疎林もある。低くなったり高くなったり、いろいろな木々の交織があるので、そこに吹
　　く風は、軟風になるのだろうか。
　　　そんな風ばかりではないだろうに、そんな佇いで広がるのが、軽井沢高原ゴルフ倶楽部であ
　　る」
　以上は、筆者が、このコースに心をとらえられた第１の理由である。
自然美が創ったコース
　軽井沢高原ＧＣは、大成建設の設計、施工、経営するゴルフ場である。大成建設は、大倉組時代の昭和３年開場の川奈ホテル大島、富士コース以来、今日まで枚挙に遑がないほどのゴルフ場を造ってきている。川奈・富士コースのように、戦略性の高さでは日本屈指のコースを造った実績を持っている。軽井沢高原ＧＣは、その大成建設が自ら造り自ら経営するグループのショウウィンドウ的な存在である。それでもなぜ軽井沢高原では、川奈・富士のような攻めて難しいコースではなく、自然美に拘った審美的なコースを造ったのか。
　－今あるコースの中で最も素晴しいと感じるのは、自然が創ったコースです－
　これは今や伝説的存在となった名設計家アリスター・マッケンジーの言葉である。軽井沢高原ＧＣも、そういう感触の中で造られたのではないか。同じ頃、軽井沢にも、Ｒ・ＴジョーンズやＪ・ニクラス設計のコースが現われていた。大成建設にも長い経験がある。見映えするデザイン技術を持っていた。しかしここではそれを抑えているのが、コースの佇いの中に見えている。だから筆者は好きになる。
　アウトコースも終りが近づくと、このコースはぐーんと楽しくなる。後の山のてっぺんまでを緑にしてしまった大きな景色を背に、クラブハウスが見えかくれし始める。クラブハウスをこのコンセプトで設計したのは誰だろう。その人が一番の貢献者だ。
　「コースもクラブハウスも皆な、社員でつくったのですよ」と支配人は説明する。
　これだけの自然、これだけの森、恐らくこれらは自生していたものだろうと思うが、コース管理部長によると、原自然そのままに見える森林は自生、移植されたのも域内からの移植である。その数130種、数77万本。アウトは９ホールが自生木と移植木、インは10、13、14番ホールが自生木と移植木、11、12、15、16、18番ホールはすべて自生木である。自生木は、１番ホールが、ズミ、シラカバ、アカマツ、シャクナゲ、ブヨウマツ、ナラ、シラカバ、カラマツ、コブシなど、10番ホールがアカマツ、フヨウマツ、カラマツ、ナラ、シラカバ、ヤマザクラ、モミジなど、共通したものもあれば、独特な木々もある。
「大いなる休日」を楽しむための１８ホールズ
　軽井沢高原ＧＣのコースは、１番ホールからスタートすることをすすめたい。１番（566ヤード・パー５）は、フェアウェイも広く景観も広いので、第１打を安心して打てる。朝スタート向きだ。第２打は、左から張り出している池を警戒、右へ。朝から２オンなどと力まず、右から100ヤード前後のやや打上げのショートアプローチで３オン、パーセーブが、賢明なスタートだろう。
　２番（412ヤード・パー４）は、距離がたっぷり。このコースは、400ヤードのパー４、つまりタフなミドルが多いが、ここもその一つ。カラマツ林に沿て軽くドッグレッグしているが広い。第１打は左フェアウェイバンカー狙い、第２打は２オンか、グリーンバンカーの手前に置いて第３打狙いか、第１打の飛び如何の判断となる。
　４番（466ヤード・パー４）は、ハンディキャップ１番の難ホール。距離があるので２オンに拘らず３オンも、第２打を左側池の手前に止めて、第３打は、砲台グリーンの傾斜をよく見て、左からグリーンオン狙い。
　７番（417ヤード・パー４）グリーン手前40ヤードのクリーク越えを慎重に読みたい。
　９番（559ヤード・パー５）谷越え第１打は、右ＯＢゾーンを警戒して、左方向、前方クラブハウスを狙うつもりで。４オンでもいい。１打毎に近づいてくる景色－背後の峠の裾に映える白いクラブハウスの屏風絵が目に楽しい。
　アウトコースに比べると、インコースは13番まで楽なホールが続く。特に12番まではパーセーブを狙いたいが、どうか。
　10番（441ヤード・パー４）第１打は右サイドへ。歩きながらふり返ると、カラマツの疎林の間から見える白いクラブハウスが印象的。第２打も右目にグリーン狙い。外しても右へ、そこからセントアンドリュースオールド17番でやるセントアンドリュース・ランナップショットを試みたらどうか。うまくピタリで、いい思い出になる筈だ。
　15番（576ヤード・パー５）第１打は約30メートルを大きく打下した後さらに10ヤード転がり続け、２オンの誘惑にも駆られるが、左へ誤ると３オンも怪しくなる。第１打如何がパーセーブへの道だ。左からのグリーン狙いは、池、バンカーの二重トラップに邪魔される。
　17番（568ヤード・パー５）谷川越えの第１打は、前方カラマツの左へ。フェアウェイは、ゆるやかに上りながら２段グリーンへ。第３打は、左側に、池に浮いた18番グリーンを上から見ることになるので、次ホール攻略の参考になる。
　18番（176ヤード・パー３）２万平方メートルの大池の水面に浮く名物のアイランドグリーンだ。広いグリーン面はやや右傾斜だが、レギュラティから146ヤード、構わず打って１オンが80％か。コンペならＣＴから打って１打逆転シーンもあるか。
　このコースは、競技用というより“大いなる休日”を旺んにするコース。コースの性格は明確で意地悪なしだ。見えてるように打てばいい。見て微妙な場面では、バンカーや池の反対側へ落せばいい。コンターライン（等高線）が右から左へ流れている時は、バンカー、池は左へ置くものだ。トラップは、穽として働くだけでなく赤信号でもある。このコースではそれがハッキリしている。
　
所在地　　　　　　群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢2032
コース規模　　　18ホール・7031ヤード・パー72
設計　　　　　　　 大成建設㈱
経営　　 　　　　　北軽井沢開発㈱　会員制
開場　　　　　　  平成７年７月７日
宿泊施設　　　  クラブハウスに連なってホテル施設あり。　シングル14室
　　　　　　　　   ツイン18室。　ツイン 5000円。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>絶景－“森を着たクラブハウス”</strong></p>
<div id="attachment_663" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini11.jpg"><img class="size-medium wp-image-663" title="軽井沢高原ゴルフ倶楽部　１８番ホールとクラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini11-300x169.jpg" alt="軽井沢高原ゴルフ倶楽部　１８番ホールとクラブハウス" width="300" height="169" /></a><p class="wp-caption-text">軽井沢高原ゴルフ倶楽部　１８番ホールとクラブハウス</p></div>
<p>　平成10年～17年頃、年に１回必ず軽井沢のどこかでプレーしていた。朝早い新幹線で行って、１ラウンドあるいは27ホール、終わると颯つとまた新幹線で帰る。そんなゴルフ行だった。主として相馬和胤氏（現・倶楽部理事長）の紹介で名門軽井沢ゴルフ倶楽部をプレーした。トップシーズンは無理だから、毎年６月中旬以前か９月中旬以降だった。<br />
　そんな習慣が突然変った。軽井沢を発った足で、軽井沢高原ゴルフ倶楽部に直行、ロッジ（ホテル）に一泊して１ラウンド、という習慣に変った。軽井沢高原ＧＣの何が、筆者を惹きつけたか。そのことを書いた印象的な、筆者の当時の文章があるので、紹介する。<br />
　　「人びとは、このコースに来ると、自分自身が森の色に染<br />
　　まるのを感じるだろう。<br />
　　　ここでは、クラブハウスは、まるで森を着ているように見える。スイスアルプスのそれを思わ<br />
　　せる建物が、風景の中に溶け込んでいて、秋はバンフスプリングス、春はスイスアルプスを想<br />
　　い出させる。そんな佇いが、他所にない軽井沢高原のもつホスピタリティである。<br />
　　　恐らく日本のゴルフコースの中でも、出色のクラブハウス風景である。<br />
　　　９番、17番ホールで、ボールを打ちつなぎながら次第にクラブハウスに近づいてゆく。カラマ<br />
　　　ツの幹の間からクラブハウスの匂い姿が近づいてくる。その頃合いの微妙は、他にない感<br />
　　　激だ。<br />
　　　恐らく森がたっぷりのこの土地を発見した人は、絵画的な表養がある人で、迷わずここに決<br />
　　めたに違いない、と思ったりする。<br />
　　　キャディさんが、クラブハウスの遥か上を指さし、「ホラ、あそこを車が通る。前橋へ行く峠で<br />
　　す」と教えてくれる。<br />
　　　峠を頂くその山頂は、クラブハウスの背景になっていて、そのまま屏風絵である。<br />
　　　ここは高原である。しかし強風がない。<br />
　　　いつ来ても軟風が吹いている。－そんな空気が漂う。厚い森もあれば、10番ホールのように<br />
　　カラマツの疎林もある。低くなったり高くなったり、いろいろな木々の交織があるので、そこに吹<br />
　　く風は、軟風になるのだろうか。<br />
　　　そんな風ばかりではないだろうに、そんな佇いで広がるのが、軽井沢高原ゴルフ倶楽部であ<br />
　　る」<br />
　以上は、筆者が、このコースに心をとらえられた第１の理由である。</p>
<p><strong>自然美が創ったコース</strong></p>
<div id="attachment_664" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini21.jpg"><img class="size-medium wp-image-664" title="軽井沢高原ゴルフ倶楽部　１０番フェアウェイから見たクラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini21-300x169.jpg" alt="軽井沢高原ゴルフ倶楽部　１０番フェアウェイから見たクラブハウス" width="300" height="169" /></a><p class="wp-caption-text">軽井沢高原ゴルフ倶楽部　１０番フェアウェイから見たクラブハウス</p></div>
<p id="[object]">　軽井沢高原ＧＣは、大成建設の設計、施工、経営するゴルフ場である。大成建設は、大倉組時代の昭和３年開場の川奈ホテル大島、富士コース以来、今日まで枚挙に遑がないほどのゴルフ場を造ってきている。川奈・富士コースのように、戦略性の高さでは日本屈指のコースを造った実績を持っている。軽井沢高原ＧＣは、その大成建設が自ら造り自ら経営するグループのショウウィンドウ的な存在である。それでもなぜ軽井沢高原では、川奈・富士のような攻めて難しいコースではなく、自然美に拘った審美的なコースを造ったのか。<br />
　－今あるコースの中で最も素晴しいと感じるのは、自然が創ったコースです－<br />
　これは今や伝説的存在となった名設計家アリスター・マッケンジーの言葉である。軽井沢高原ＧＣも、そういう感触の中で造られたのではないか。同じ頃、軽井沢にも、Ｒ・ＴジョーンズやＪ・ニクラス設計のコースが現われていた。大成建設にも長い経験がある。見映えするデザイン技術を持っていた。しかしここではそれを抑えているのが、コースの佇いの中に見えている。だから筆者は好きになる。<br />
　アウトコースも終りが近づくと、このコースはぐーんと楽しくなる。後の山のてっぺんまでを緑にしてしまった大きな景色を背に、クラブハウスが見えかくれし始める。クラブハウスをこのコンセプトで設計したのは誰だろう。その人が一番の貢献者だ。<br />
　「コースもクラブハウスも皆な、社員でつくったのですよ」と支配人は説明する。<br />
　これだけの自然、これだけの森、恐らくこれらは自生していたものだろうと思うが、コース管理部長によると、原自然そのままに見える森林は自生、移植されたのも域内からの移植である。その数130種、数77万本。アウトは９ホールが自生木と移植木、インは10、13、14番ホールが自生木と移植木、11、12、15、16、18番ホールはすべて自生木である。自生木は、１番ホールが、ズミ、シラカバ、アカマツ、シャクナゲ、ブヨウマツ、ナラ、シラカバ、カラマツ、コブシなど、10番ホールがアカマツ、フヨウマツ、カラマツ、ナラ、シラカバ、ヤマザクラ、モミジなど、共通したものもあれば、独特な木々もある。</p>
<p><strong>「大いなる休日」を楽しむための１８ホールズ</strong></p>
<div id="attachment_665" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini3.jpg"><img class="size-medium wp-image-665" title="軽井沢高原ゴルフ倶楽部　９番ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini3-300x201.jpg" alt="軽井沢高原ゴルフ倶楽部　９番ホール" width="300" height="201" /></a><p class="wp-caption-text">軽井沢高原ゴルフ倶楽部　９番ホール</p></div>
<p id="[object]">　軽井沢高原ＧＣのコースは、１番ホールからスタートすることをすすめたい。１番（566ヤード・パー５）は、フェアウェイも広く景観も広いので、第１打を安心して打てる。朝スタート向きだ。第２打は、左から張り出している池を警戒、右へ。朝から２オンなどと力まず、右から100ヤード前後のやや打上げのショートアプローチで３オン、パーセーブが、賢明なスタートだろう。<br />
　２番（412ヤード・パー４）は、距離がたっぷり。このコースは、400ヤードのパー４、つまりタフなミドルが多いが、ここもその一つ。カラマツ林に沿て軽くドッグレッグしているが広い。第１打は左フェアウェイバンカー狙い、第２打は２オンか、グリーンバンカーの手前に置いて第３打狙いか、第１打の飛び如何の判断となる。<br />
　４番（466ヤード・パー４）は、ハンディキャップ１番の難ホール。距離があるので２オンに拘らず３オンも、第２打を左側池の手前に止めて、第３打は、砲台グリーンの傾斜をよく見て、左からグリーンオン狙い。<br />
　７番（417ヤード・パー４）グリーン手前40ヤードのクリーク越えを慎重に読みたい。<br />
　９番（559ヤード・パー５）谷越え第１打は、右ＯＢゾーンを警戒して、左方向、前方クラブハウスを狙うつもりで。４オンでもいい。１打毎に近づいてくる景色－背後の峠の裾に映える白いクラブハウスの屏風絵が目に楽しい。<br />
　アウトコースに比べると、インコースは13番まで楽なホールが続く。特に12番まではパーセーブを狙いたいが、どうか。<br />
　10番（441ヤード・パー４）第１打は右サイドへ。歩きながらふり返ると、カラマツの疎林の間から見える白いクラブハウスが印象的。第２打も右目にグリーン狙い。外しても右へ、そこからセントアンドリュースオールド17番でやるセントアンドリュース・ランナップショットを試みたらどうか。うまくピタリで、いい思い出になる筈だ。<br />
　15番（576ヤード・パー５）第１打は約30メートルを大きく打下した後さらに10ヤード転がり続け、２オンの誘惑にも駆られるが、左へ誤ると３オンも怪しくなる。第１打如何がパーセーブへの道だ。左からのグリーン狙いは、池、バンカーの二重トラップに邪魔される。<br />
　17番（568ヤード・パー５）谷川越えの第１打は、前方カラマツの左へ。フェアウェイは、ゆるやかに上りながら２段グリーンへ。第３打は、左側に、池に浮いた18番グリーンを上から見ることになるので、次ホール攻略の参考になる。<br />
　18番（176ヤード・パー３）２万平方メートルの大池の水面に浮く名物のアイランドグリーンだ。広いグリーン面はやや右傾斜だが、レギュラティから146ヤード、構わず打って１オンが80％か。コンペならＣＴから打って１打逆転シーンもあるか。<br />
　このコースは、競技用というより“大いなる休日”を旺んにするコース。コースの性格は明確で意地悪なしだ。見えてるように打てばいい。見て微妙な場面では、バンカーや池の反対側へ落せばいい。コンターライン（等高線）が右から左へ流れている時は、バンカー、池は左へ置くものだ。トラップは、穽として働くだけでなく赤信号でもある。このコースではそれがハッキリしている。<br />
　<br />
所在地　　　　　　群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢2032<br />
コース規模　　　18ホール・7031ヤード・パー72<br />
設計　　　　　　　 大成建設㈱<br />
経営　　 　　　　　北軽井沢開発㈱　会員制<br />
開場　　　　　　  平成７年７月７日<br />
宿泊施設　　　  クラブハウスに連なってホテル施設あり。　シングル14室<br />
　　　　　　　　   ツイン18室。　ツイン 5000円。</p>
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		</item>
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		<title>第59回　横浜カントリークラブ</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=647</link>
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		<pubDate>Tue, 14 Feb 2012 06:37:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

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		<description><![CDATA[経営者で設計家、先達の遺産“横浜ＣＣ”
　昭和32年夏、一人の青年が、横浜市保土ヶ谷区今井のとある丘の頂上に立っていた。
　「やってみるか」
　呟いたのは、相山武夫青年。戦前はテノール歌手として混声合唱団を率いた人物だったが、当時は、東京大田区の多摩川河川敷で六郷ゴルフクラブを経営していた。現在は姿を消したが、戦前は近衛文麿も会員だったという六郷ゴルフ倶楽部の跡だ。今は、京浜東北線が多摩川を渡る高架橋の下に、僅かにゴルフ他の練習場として俤を残しているが…。
　当時は都心から近く大いに繁盛していたが、台風で冠水すれば忽ち赤字…。
　そこへ「保土ヶ谷の今井にゴルフ場向きの土地がある」という話が飛び込んだ。芝の生産組合長清水九兵衛がもたらした情報だ。信用できる－相山の気持ちが動いた。相山は、我孫子ＧＣのシングルハンディ、コース設計にも興味がある。「やってみるか」となった。
　その時相山が立っていた丘は、相模国と武蔵国を分つ小高い頂きで、戦国時代小田原北條氏の拠点となった今井城の在った場所、現在のクラブハウスのある位置だ。その時はしかし一面の雑木林が広がっているだけの低い丘陵地だった。
　昭和33年11月㈱横浜国際ゴルフ倶楽部設立。社長・相山武夫。12月から土地買収が始った。競合するように隣接地でスタートした戸塚ＣＣ、近くを通る相模鉄道の鉄路など競合に悩まされたが、最大の難問は、昭和34年に開通したワンマン道路こと横浜バイパスの建設工事で、土地代が所によっては坪800円から3000円に急騰したこともあった。但しゴルフ場開場後は、横浜バイパスは家にたとえれば玄関と直結、ハイウェイに一番近いゴルフ場となった。
東コース、西コースそれぞれの誕生事情
　昭和34年６月、東・インコースから造成工事に着手。基本設計は相山武夫、詳細設計は戦前の鷹之台ＧＣを設計した清木一男。清木は、当時の六郷ＧＣを設計した縁である。途中からパートナーは竹村秀夫に交代している。（なお相山は、横浜ＣＣの他、全国で宇都宮ＣＣ、塩原ＣＣなど生涯12コースを設計している）
　翌36年東コース、18ホール・5955ヤード・パー70がオープン。
　３年おくれて昭和39年西コース・18ホール・6841ヤード・パー72が開場。高麗芝２グリーンの36ホールが揃った。しかし東・西両コースのスタートの間は約１キロ、クラブハウスも東・西それぞれ小ぢんまりと独立、その間はバスで連絡していた。西コースの進入路は、横浜バイパスではなく、保土ヶ谷バイパス南本宿ＩＣが近い。これを見て、
　「東・西コースが同じ場所からのスタートじゃないと、36ホールズとはいえないよ」
　と忠告したのは、カナダ杯優勝でゴルフ界随一のヒーローとなった寅さんこと中村寅吉プロだった。その時から横浜ＣＣのコース改造の努力の歴史が始った。
　谷口吉郎設計の平安朝風外観の現クラブハウスが完成したのは、昭和45年９月。東・西コースの４ヶ所のスタートティは、ニューハウス間近に集められた。そのためのレイアウト変更は大変な難工事で、ティとグリーンの入れ換え、２ホールを足して１ホールとする、コースの下にトンネルを掘ったという記録も残っている。寅さんの忠告以来６年経っていた。
全国に先駆けた「全36ホール、ベント１グリーン構想」
　しかし創業者相山武夫の構想は、更に大きかったようだ。平成12年１月10日、10億円を投じての“全36ホールのベント１グリーン化大改造計画”を発表したのだ。相山社長はその席で
　「開場40周年事業として、新世紀にふさわしいプレースタイルの改革をめざす」
　と語っている。
　東コースインコースからすぐに着手。改造設計は、昔はジャンボ尾崎とコンビの佐藤謙太郎。平成12年４月からベントの播種を始めて９月完成、13年東アウトコースと進み、平成15年９月最後の西コースインを終り、平成16年に全36ホールのベント１グリーン化が完成する計画だった。36ホールのオールベント１グリーンは、日本ゴルフ界でも先例のない画期的構想だった。
　しかし改造工事が進み始めた平成12年３月６日、相山社長が急逝（享年85歳）した。結局構想は、東コース18ホールが終了した段階で、中断する。従って今年９月27日～30日の４日間西コースで行われる日本女子オープンは、従来のメインはベント、サブはコーライの２グリーンで利用される。
　地形的には、東コースはやや狭いホールがある。１グリーンの佐藤謙太郎は、戦略派のアーキテクトだから、繊細で頭脳的なプレーが必要。特に１グリーンベント改造で、全く新しくなったグリーンは、攻めるに難しいホールが多い。西コースは比べれば、フェアウェイも広く、グリーンも大きい。18番（640ヤード・パー５）を除けばヤーデージも特別に長いホールはない。アウトコースは、雰囲気、地形ともやや東コースに近いが、インコースはより大らか、140ヤードのパー３（11番）もあるなど、アベレージには息ぬきの場面もある。
　平成23年の日本女子オープンは、優勝スコアが12オーバーと、辛い戦いだったが、名古屋・和合コースと比べると、横浜ＣＣ西コースは、ともに丘陵コースながら、和合ほど傾斜が強くない。フェアウェイも比べれば広いし、グリーンは横浜ＣＣ西コースの方があきらかに大きい。だから12オーバー優勝はあるまいが、コースアレンジメント如何では、意外に手古摺ることもあるか。ホットスポットは最終18番ホール。全長640ヤードを何ヤードにアレンジするか、競技委員の胸三寸だが、今は女子でもボールが飛ぶ、レギュラティ595ヤードで抑えれば、名場面が期待できるか。
　因みに過去に当クラブ（コース）で行われた主要競技の優勝スコアは、つぎの通りである。
☆日本オープン　（昭和53年）　西コース
　優勝　セベ・バレステロス（スペイン）　281
　２位　グラハム・マーシュ（豪）　281
　ベストアマ　金子柱憲　297
☆関東プロ　（昭和46年）　西コース
　優勝　青木功　273＝69　66　66　72
　相山武夫が生涯の事業とした“全36ホールのベント１グリーン改造構想”で残された西コースが、いつ着手され、完成するか。それを待つゴルファーは少なくないだろう。
　
所在地　　　　　　神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町1025
コース　　　　　　西18ホール・6920ヤード・パー72
　　　　　　　　 　 東18ホール・6443ヤード・パー72
コースレート　　　西　72.8　　東　70.8
設計者　　　　　　相山武夫　竹村秀夫
　　　　　　　　　  （東グリーン設計）佐藤謙太郎
コースレコード  西（ベント）　プロ　島田幸作　64  アマ　高野善次郎　72
　　　　　　　　　  東（ベント）　プロ　佐藤国昭　67  アマ　陳　容　68
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>経営者で設計家、先達の遺産“横浜ＣＣ”</strong></p>
<div id="attachment_650" class="wp-caption alignright" style="width: 460px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini1.jpg"><img class="size-full wp-image-650 " title="横浜カントリークラブ　東コース１８番グリーンからクラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini1.jpg" alt="横浜カントリークラブ　東コース１８番グリーンからクラブハウス" width="450" height="171" /></a><p class="wp-caption-text">横浜カントリークラブ　東コース１８番グリーンからクラブハウス</p></div>
<p id="[object]">　昭和32年夏、一人の青年が、横浜市保土ヶ谷区今井のとある丘の頂上に立っていた。<br />
　「やってみるか」<br />
　呟いたのは、相山武夫青年。戦前はテノール歌手として混声合唱団を率いた人物だったが、当時は、東京大田区の多摩川河川敷で六郷ゴルフクラブを経営していた。現在は姿を消したが、戦前は近衛文麿も会員だったという六郷ゴルフ倶楽部の跡だ。今は、京浜東北線が多摩川を渡る高架橋の下に、僅かにゴルフ他の練習場として俤を残しているが…。<br />
　当時は都心から近く大いに繁盛していたが、台風で冠水すれば忽ち赤字…。<br />
　そこへ「保土ヶ谷の今井にゴルフ場向きの土地がある」という話が飛び込んだ。芝の生産組合長清水九兵衛がもたらした情報だ。信用できる－相山の気持ちが動いた。相山は、我孫子ＧＣのシングルハンディ、コース設計にも興味がある。「やってみるか」となった。<br />
　その時相山が立っていた丘は、相模国と武蔵国を分つ小高い頂きで、戦国時代小田原北條氏の拠点となった今井城の在った場所、現在のクラブハウスのある位置だ。その時はしかし一面の雑木林が広がっているだけの低い丘陵地だった。<br />
　昭和33年11月㈱横浜国際ゴルフ倶楽部設立。社長・相山武夫。12月から土地買収が始った。競合するように隣接地でスタートした戸塚ＣＣ、近くを通る相模鉄道の鉄路など競合に悩まされたが、最大の難問は、昭和34年に開通したワンマン道路こと横浜バイパスの建設工事で、土地代が所によっては坪800円から3000円に急騰したこともあった。但しゴルフ場開場後は、横浜バイパスは家にたとえれば玄関と直結、ハイウェイに一番近いゴルフ場となった。</p>
<p><strong>東コース、西コースそれぞれの誕生事情</strong></p>
<p>　昭和34年６月、東・インコースから造成工事に着手。基本設計は相山武夫、詳細設計は戦前の鷹之台ＧＣを設計した清木一男。清木は、当時の六郷ＧＣを設計した縁である。途中からパートナーは竹村秀夫に交代している。（なお相山は、横浜ＣＣの他、全国で宇都宮ＣＣ、塩原ＣＣなど生涯12コースを設計している）<br />
　翌36年東コース、18ホール・5955ヤード・パー70がオープン。<br />
　３年おくれて昭和39年西コース・18ホール・6841ヤード・パー72が開場。高麗芝２グリーンの36ホールが揃った。しかし東・西両コースのスタートの間は約１キロ、クラブハウスも東・西それぞれ小ぢんまりと独立、その間はバスで連絡していた。西コースの進入路は、横浜バイパスではなく、保土ヶ谷バイパス南本宿ＩＣが近い。これを見て、<br />
　「東・西コースが同じ場所からのスタートじゃないと、36ホールズとはいえないよ」<br />
　と忠告したのは、カナダ杯優勝でゴルフ界随一のヒーローとなった寅さんこと中村寅吉プロだった。その時から横浜ＣＣのコース改造の努力の歴史が始った。<br />
　谷口吉郎設計の平安朝風外観の現クラブハウスが完成したのは、昭和45年９月。東・西コースの４ヶ所のスタートティは、ニューハウス間近に集められた。そのためのレイアウト変更は大変な難工事で、ティとグリーンの入れ換え、２ホールを足して１ホールとする、コースの下にトンネルを掘ったという記録も残っている。寅さんの忠告以来６年経っていた。</p>
<p><strong>全国に先駆けた「全36ホール、ベント１グリーン構想」</strong></p>
<div id="attachment_652" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini2.jpg"><img class="size-medium wp-image-652" title="横浜カントリークラブ　東コース１８番ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/02/mini2-300x168.jpg" alt="横浜カントリークラブ　東コース１８番ホール" width="300" height="168" /></a><p class="wp-caption-text">横浜カントリークラブ　東コース１８番ホール</p></div>
<p id="[object]">　しかし創業者相山武夫の構想は、更に大きかったようだ。平成12年１月10日、10億円を投じての“全36ホールのベント１グリーン化大改造計画”を発表したのだ。相山社長はその席で<br />
　「開場40周年事業として、新世紀にふさわしいプレースタイルの改革をめざす」<br />
　と語っている。<br />
　東コースインコースからすぐに着手。改造設計は、昔はジャンボ尾崎とコンビの佐藤謙太郎。平成12年４月からベントの播種を始めて９月完成、13年東アウトコースと進み、平成15年９月最後の西コースインを終り、平成16年に全36ホールのベント１グリーン化が完成する計画だった。36ホールのオールベント１グリーンは、日本ゴルフ界でも先例のない画期的構想だった。<br />
　しかし改造工事が進み始めた平成12年３月６日、相山社長が急逝（享年85歳）した。結局構想は、東コース18ホールが終了した段階で、中断する。従って今年９月27日～30日の４日間西コースで行われる日本女子オープンは、従来のメインはベント、サブはコーライの２グリーンで利用される。<br />
　地形的には、東コースはやや狭いホールがある。１グリーンの佐藤謙太郎は、戦略派のアーキテクトだから、繊細で頭脳的なプレーが必要。特に１グリーンベント改造で、全く新しくなったグリーンは、攻めるに難しいホールが多い。西コースは比べれば、フェアウェイも広く、グリーンも大きい。18番（640ヤード・パー５）を除けばヤーデージも特別に長いホールはない。アウトコースは、雰囲気、地形ともやや東コースに近いが、インコースはより大らか、140ヤードのパー３（11番）もあるなど、アベレージには息ぬきの場面もある。<br />
　平成23年の日本女子オープンは、優勝スコアが12オーバーと、辛い戦いだったが、名古屋・和合コースと比べると、横浜ＣＣ西コースは、ともに丘陵コースながら、和合ほど傾斜が強くない。フェアウェイも比べれば広いし、グリーンは横浜ＣＣ西コースの方があきらかに大きい。だから12オーバー優勝はあるまいが、コースアレンジメント如何では、意外に手古摺ることもあるか。ホットスポットは最終18番ホール。全長640ヤードを何ヤードにアレンジするか、競技委員の胸三寸だが、今は女子でもボールが飛ぶ、レギュラティ595ヤードで抑えれば、名場面が期待できるか。<br />
　因みに過去に当クラブ（コース）で行われた主要競技の優勝スコアは、つぎの通りである。<br />
☆日本オープン　（昭和53年）　西コース<br />
　優勝　セベ・バレステロス（スペイン）　281<br />
　２位　グラハム・マーシュ（豪）　281<br />
　ベストアマ　金子柱憲　297<br />
☆関東プロ　（昭和46年）　西コース<br />
　優勝　青木功　273＝69　66　66　72<br />
　相山武夫が生涯の事業とした“全36ホールのベント１グリーン改造構想”で残された西コースが、いつ着手され、完成するか。それを待つゴルファーは少なくないだろう。<br />
　<br />
所在地　　　　　　神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町1025<br />
コース　　　　　　西18ホール・6920ヤード・パー72<br />
　　　　　　　　 　 東18ホール・6443ヤード・パー72<br />
コースレート　　　西　72.8　　東　70.8<br />
設計者　　　　　　相山武夫　竹村秀夫<br />
　　　　　　　　　  （東グリーン設計）佐藤謙太郎<br />
コースレコード  西（ベント）　プロ　島田幸作　64  アマ　高野善次郎　72<br />
　　　　　　　　　  東（ベント）　プロ　佐藤国昭　67  アマ　陳　容　68</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>第58回　広島カンツリー倶楽部　～八本松コース～</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=643</link>
		<comments>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=643#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 28 Jan 2012 04:26:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=643</guid>
		<description><![CDATA[戦前の名門広島ＧＣの「兄」と「弟」
　広島県下第１号のゴルフ場は、昭和４年５月、加茂郡原村八本松にオープンした広島ゴルフ倶楽部である。岡山霞橋ゴルフ倶楽部（昭和５年開場）より１年早い。中国地方のファーストランである。
　広島県下には、２つの名門倶楽部がある。現在の広島ゴルフ倶楽部と広島カンツリー倶楽部（西條コース、八本松コース）だ。名称は僅かに違うが、親は一つ、両倶楽部を分かつたのは戦争、そして原爆被災だった。歴史を辿ってみよう。
　戦前の広島ゴルフ倶楽部は、初め12ホール・パー48でスタート。原村コースあるいは八本松リンクスと呼ばれていた。設計は天野進作、中村尋。一年後増設、18ホールとなる。中国地方唯一の18ホールズだった。そして太平洋戦争。昭和17年暁部隊演習場として陸軍が接収、閉鎖。そして終戦。コース跡は広島大学水畜産部の演習林（加茂農場）となっていて、止むを得ず、戦後再発足の広島ゴルフ倶楽部は、昭和27年11月、広島市西郊鈴ヶ峰に６ホール・1395ヤードのショートコースとして、形ばかりの復活を果した。29年９ホール、現在の広島ゴルフ倶楽部鈴ヶ峰コースである。思い通りの復活が成らなかったのはなぜか。『鈴ヶ峰50年史』は、「会員の大多数が戦災死し…」と書く。戦災死とは原爆被災死である。昭和49年８月ようやく18ホールとなる。
　昭和30年、広島ＧＣの残党のもう一つのグループが、「９ホールでは飽き足らず…」、旧コース跡の東隣西條盆地に、丸毛信勝設計の18ホール、広島カンツリー倶楽部西條コースを開場する。
　しかし10年経てば事情も転換する。広島大の加茂農場が移転した。その跡即ち戦前の広島ＧＣの跡地に、昭和38年11月17日、広島カンツリー倶楽部八本松コース（上田治設計）18ホールが復活した。
　現在の八本松コース内には、旧コースの遺跡が残っている。５番ホール横には戦前の旧広島ＧＣ15番ホールの跡を記念する碑文が建てられ、９番ホール右の松林には、広島大演習林加茂農場のサイロが残っている。
　こう見てくると、同じ父の血を受けながら、三男坊の八本松コースこそ、戦前派広島ＧＣ八本松リンクスの承継者といえそうだ。
赤松の幹立ちの魔術師・上田治
　広島ＣＣ八本松コースは、上田治第１の代表作といわれたことがある。
　平成１年に取材ラウンドした時、当時の総支配人河内康氏から、
　「西日本には、古賀ＧＣ、下関ＧＣ、大阪ＧＣなど上田治設計のコースが多いが、原設計をそのまま残しているのは、八本松コースだけだと思いますよ」
　と聞いたことがある。平成16年の日本女子オープンを前に、２グリーンから１グリーンに改造される前の話であるが、八本松コースが、上田治設計のシンボリックな代表作であることに変りはない。
　上田治は、このコースを設計する際、旧コース時代から受け継いだ背の高い樹齢数百年の赤松の独立樹を主体に、①ＯＢはつくらない。②ローカルルールめいた設計を避ける。③変則スウィングを打たせるようなアップダウンはなし、という３原則で設計したといわれている。特に、巨松の独立樹の扱い方は、風趣としても戦略としても、秀逸である。
　地名が八本松である。コースには赤松の巨松が目立つ。フェアウェイは、松林の中を縫って伸びている。そのフェアウェイ上には高い一本松が仁王立ちしていたりする。グリーンの門口（昔流にいえばエプロンの場所）には２本の大きな松の幹立ちが並び、ドッグレッグの曲り角には、ひと際目立つ高い松が立つ。ティに立つと２グリーンの筈が、見えるのは、左グリーンだけである。敏感なゴルフ理解のある人なら、“アレ、上田治は井上誠一と並んで２グリーンの生みの親といわれているが、ほんとは１グリーン主義か”と忖度しとたくなるシーンがいくつもある。
　このように八本松コースの上田治は、松の幹立を、戦略ラインの立役者として、大きな役目を担わせているのだ。
　林間コースとは、フェアウェイの両側に林が伴走している風趣だけを言うのではない。たとえば、老松と老松の間を打ち抜いてゆく２番ホールの第１打の厳しさ、10番ホールでは、190ヤード地点のメタセコイアの右へラインを誤ったときの、２打、３打の苦しさのように、１本あるいは数本の幹立ち、独立樹が主役となっての緊迫感を持たせているのが、本物の林間コースである。
　その意味で八本松コースは、まぎれもない林間コースの一流傑作である。
１グリーンとしての八本松コース
　上田治は、京都大学在学中から、廣野ＧＣの設計、造成で来日していたＣ・Ｈアリソンの技術、美学を目で見て影響を受けている。２グリーン主義である筈はない。しかし彼は、八本松コースを含め多くの２グリーンを造っている。芝をめぐる技術の後進国日本ならではの、止むを得ない妥協だった。その中で上田は、八本松の１、２、４、６、９、10、12、13、16、17番ホールで、赤松という大きなバーチカル（直立）ハザードを配置することで、プレー上は、グリーンが一つしか見えないシーンをデザインしている。それは、設計者上田治の美学的な苦衷（本音）の表現だったのではないか。そして平成16年の１グリーン改造によって、その苦衷の時代は終り、本音を殺して妥協していた本来の上田美学、戦略性が１グリーンの今その姿を見せているのではないだろうか。
　ひと昔前、ここで行われていたヨネックスオープンで、同一大会最多勝記録タイの９勝を挙げたジャンボ尾崎は、八本松コースについて、
　「林間コースは目標がとりやすい」
　と語っている。対してつぎのような意見もある。
　「今のクラブ、ボールはひたすら飛距離を求めて進化、300ヤードを超えて飛ぶ。しかし第２打でインテンショナル（意図的）ボールが打てない。スタイミーな松を前に立ち往生するシーンが増えます」（ゴルフコース設計者協会会長当時の大西久光氏談）
　八本松コースの赤松の老松は、今後は、バーチカルハザードとして、プレーヤーを悩ませるのだろうか。
　
所在地　　　　　　広島県東広島市八本松町原11083-1
コース規模　　　18ホール・7035ヤード・パー72
　　　　　　　　　　　コースレート　　　73.7
設　 計　　　　　　上田　治
開場日　　　　　　平成38年11月17日
コースレコード  （プロ）Ｓ・Ｋ・ホ　61
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>戦前の名門広島ＧＣの「兄」と「弟」</strong></p>
<p>　広島県下第１号のゴルフ場は、昭和４年５月、加茂郡原村八本松にオープンした広島ゴルフ倶楽部である。岡山霞橋ゴルフ倶楽部（昭和５年開場）より１年早い。中国地方のファーストランである。<br />
　広島県下には、２つの名門倶楽部がある。現在の広島ゴルフ倶楽部と広島カンツリー倶楽部（西條コース、八本松コース）だ。名称は僅かに違うが、親は一つ、両倶楽部を分かつたのは戦争、そして原爆被災だった。歴史を辿ってみよう。<br />
　戦前の広島ゴルフ倶楽部は、初め12ホール・パー48でスタート。原村コースあるいは八本松リンクスと呼ばれていた。設計は天野進作、中村尋。一年後増設、18ホールとなる。中国地方唯一の18ホールズだった。そして太平洋戦争。昭和17年暁部隊演習場として陸軍が接収、閉鎖。そして終戦。コース跡は広島大学水畜産部の演習林（加茂農場）となっていて、止むを得ず、戦後再発足の広島ゴルフ倶楽部は、昭和27年11月、広島市西郊鈴ヶ峰に６ホール・1395ヤードのショートコースとして、形ばかりの復活を果した。29年９ホール、現在の広島ゴルフ倶楽部鈴ヶ峰コースである。思い通りの復活が成らなかったのはなぜか。『鈴ヶ峰50年史』は、「会員の大多数が戦災死し…」と書く。戦災死とは原爆被災死である。昭和49年８月ようやく18ホールとなる。<br />
　昭和30年、広島ＧＣの残党のもう一つのグループが、「９ホールでは飽き足らず…」、旧コース跡の東隣西條盆地に、丸毛信勝設計の18ホール、広島カンツリー倶楽部西條コースを開場する。<br />
　しかし10年経てば事情も転換する。広島大の加茂農場が移転した。その跡即ち戦前の広島ＧＣの跡地に、昭和38年11月17日、広島カンツリー倶楽部八本松コース（上田治設計）18ホールが復活した。<br />
　現在の八本松コース内には、旧コースの遺跡が残っている。５番ホール横には戦前の旧広島ＧＣ15番ホールの跡を記念する碑文が建てられ、９番ホール右の松林には、広島大演習林加茂農場のサイロが残っている。<br />
　こう見てくると、同じ父の血を受けながら、三男坊の八本松コースこそ、戦前派広島ＧＣ八本松リンクスの承継者といえそうだ。</p>
<p><strong>赤松の幹立ちの魔術師・上田治</strong></p>
<p>　広島ＣＣ八本松コースは、上田治第１の代表作といわれたことがある。<br />
　平成１年に取材ラウンドした時、当時の総支配人河内康氏から、<br />
　「西日本には、古賀ＧＣ、下関ＧＣ、大阪ＧＣなど上田治設計のコースが多いが、原設計をそのまま残しているのは、八本松コースだけだと思いますよ」<br />
　と聞いたことがある。平成16年の日本女子オープンを前に、２グリーンから１グリーンに改造される前の話であるが、八本松コースが、上田治設計のシンボリックな代表作であることに変りはない。<br />
　上田治は、このコースを設計する際、旧コース時代から受け継いだ背の高い樹齢数百年の赤松の独立樹を主体に、①ＯＢはつくらない。②ローカルルールめいた設計を避ける。③変則スウィングを打たせるようなアップダウンはなし、という３原則で設計したといわれている。特に、巨松の独立樹の扱い方は、風趣としても戦略としても、秀逸である。<br />
　地名が八本松である。コースには赤松の巨松が目立つ。フェアウェイは、松林の中を縫って伸びている。そのフェアウェイ上には高い一本松が仁王立ちしていたりする。グリーンの門口（昔流にいえばエプロンの場所）には２本の大きな松の幹立ちが並び、ドッグレッグの曲り角には、ひと際目立つ高い松が立つ。ティに立つと２グリーンの筈が、見えるのは、左グリーンだけである。敏感なゴルフ理解のある人なら、“アレ、上田治は井上誠一と並んで２グリーンの生みの親といわれているが、ほんとは１グリーン主義か”と忖度しとたくなるシーンがいくつもある。<br />
　このように八本松コースの上田治は、松の幹立を、戦略ラインの立役者として、大きな役目を担わせているのだ。<br />
　林間コースとは、フェアウェイの両側に林が伴走している風趣だけを言うのではない。たとえば、老松と老松の間を打ち抜いてゆく２番ホールの第１打の厳しさ、10番ホールでは、190ヤード地点のメタセコイアの右へラインを誤ったときの、２打、３打の苦しさのように、１本あるいは数本の幹立ち、独立樹が主役となっての緊迫感を持たせているのが、本物の林間コースである。<br />
　その意味で八本松コースは、まぎれもない林間コースの一流傑作である。</p>
<p><strong>１グリーンとしての八本松コース</strong></p>
<p>　上田治は、京都大学在学中から、廣野ＧＣの設計、造成で来日していたＣ・Ｈアリソンの技術、美学を目で見て影響を受けている。２グリーン主義である筈はない。しかし彼は、八本松コースを含め多くの２グリーンを造っている。芝をめぐる技術の後進国日本ならではの、止むを得ない妥協だった。その中で上田は、八本松の１、２、４、６、９、10、12、13、16、17番ホールで、赤松という大きなバーチカル（直立）ハザードを配置することで、プレー上は、グリーンが一つしか見えないシーンをデザインしている。それは、設計者上田治の美学的な苦衷（本音）の表現だったのではないか。そして平成16年の１グリーン改造によって、その苦衷の時代は終り、本音を殺して妥協していた本来の上田美学、戦略性が１グリーンの今その姿を見せているのではないだろうか。<br />
　ひと昔前、ここで行われていたヨネックスオープンで、同一大会最多勝記録タイの９勝を挙げたジャンボ尾崎は、八本松コースについて、<br />
　「林間コースは目標がとりやすい」<br />
　と語っている。対してつぎのような意見もある。<br />
　「今のクラブ、ボールはひたすら飛距離を求めて進化、300ヤードを超えて飛ぶ。しかし第２打でインテンショナル（意図的）ボールが打てない。スタイミーな松を前に立ち往生するシーンが増えます」（ゴルフコース設計者協会会長当時の大西久光氏談）<br />
　八本松コースの赤松の老松は、今後は、バーチカルハザードとして、プレーヤーを悩ませるのだろうか。<br />
　<br />
所在地　　　　　　広島県東広島市八本松町原11083-1<br />
コース規模　　　18ホール・7035ヤード・パー72<br />
　　　　　　　　　　　コースレート　　　73.7<br />
設　 計　　　　　　上田　治<br />
開場日　　　　　　平成38年11月17日<br />
コースレコード  （プロ）Ｓ・Ｋ・ホ　61</p>
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		<title>第57回　北海道クラシック・ゴルフクラブ</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=632</link>
		<comments>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=632#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 17 Jan 2012 07:17:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

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		<description><![CDATA[ニクラス「私の自信作」と語る



北海道クラシック・ゴルフクラブ　本棟と食堂が別棟になったクラブハウス


　北海道クラシックのコースについては、完成する前から、筆者には、憧れに似た期待があった。設計者の帝王ジャック・ニクラスが、このコースについて、
　「ここは、米国の名門ゴルフリゾート・パインハーストを連想させる」と語り、
　「今、日本の北海道で、私の自信作を造っている」
　と、珍しく多辯だった。平成３年６月８日開場後には、「北海道クラシックは、私が日本で設計したコースのうちの最上の作品だ」という意味を語ったコメントを紙上で読んだりした。こうして筆者の中のクラシック憧憬はより深くなった。
　筆者を含めた内地のゴルファーには、北海道へ飛ぶ飛行機の中で、一つの期待がある。それは、北海道という大きな大地につくられた大きなゴルフコースへの憧れだ。内地のコースは、箱庭コース、ガーデンスタイルだ。北海道なら違うと期待したが、意外にも既設のコースは、輪厚も島松もクラークも札樽、室蘭も、内地型のガーデンタイプを出ていなかった。設計者も母体企業も施工業者も内地派遣だから、そうなるか、と落胆。その分“本物の北海道コース”への憧れは募っていった。
　そこに帝王ニクラス登場である。ニクラスなら本物の北海道の自然の大きさ、雄渾さをコース設計の上に提案してくれるだろう、そういう期待が、北海道クラシックの上に描かれた時期があった。
チャレンジを要求する戦略設計
　ニクラスに、「米国の名門リゾート・パインハーストを連想させる」といわせた、北海道クラシックの用地はどんな環境だったか。
　このコースは、全域が柏（かしわ）の原生林で、数限りない葉裏が風にそよいでいて眩しいほどだ。柏の木は、高くなりすぎないのが特徴、３メートル弱で刈り揃えたような林立が続く。20年前のコース周辺には、森林のほか小さい湖沼と牧場が拡がっていて、隣は、名馬テンポイントを生んだ吉田牧場だった。
　こうした土地柄から、このコースには、ゴルフ場の雰囲気を超えてスポーツフィールドの爽やかさが溢れていた。それが、ニクラスに、名門ゴルフリゾート・パインハーストを連想させたのである。
　北海道クラシックの18ホールには、Ｊ・ニクラスの設計思想が満載されている。プロゴルフ出ではない、専門職業設計家のＲ・Ｔジョーンズ・ジュニアが、
　「彼のコースは、自分のゲームに基づいて設計されています。ロング・ボールを打ち、高く上がるショットで小さなグリーンに乗せなければなりません。それが彼のプレーのやり方です」と語っているような、そんなニクラスの設計思想が満載されているのだ。
　特に、６番（401Ｙ・Ｐ４）、10番（525Ｙ・Ｐ５）、17番（163Ｙ・Ｐ３）、18番（448Ｙ・Ｐ４）の水際設計は、きびしくも非凡である。
　中でも忘れられない難ホールは、10番ホールである。否、名ホールである。
　フェアウェイは２本である。左のそれは大池の上に浮かび、右のフェアウェイは、右の岸辺柏の林間に伸びている。左の水上のフェアウェイは、第２打で高さ７、８メートル上のグリーンを池越えで狙うドラスティックな攻略ルートだ。右の陸のフェアウェイは、３オン狙いの設計だが、グリーンまでに深いクロスバンカー、装飾バンカー、そしてフェアウェイをしぼる立木を並べて、飛球の空間は狭い。やっと辿りついたグリーンは、大池の上に高く突き出した半島の上に小さい。ストレスのたまる造りだ。
　どちらのルートを選ぶか、その判断はティグラウンド上で求められている。
　６番、18番は、似たような戦略設計だ。パー４の６番は第２打、パー５の18番は第３打で、残る170～180メートルをダウンヒルから打つ池越えとして設計している。池の手前でのレイアップを嫌いダウンヒルにしたのだ。ニクラスはチャレンジを求めているのである。これがニクラスの本領。両コースがシングルプレーヤーに喜ばれる理由もそこにある。
　17番（パー３）は、大池の上、10番グリーンの対岸にあり、水面から10メートルの半島いや岬の上にグリーンを置いている。グリーンは陸側から岬の突端へ横長で奥へ浅い。ピンが右にある時と左のフラッグと、その戦略的迫力は比較にならない。精緻な名ホールだ。
日本アマ決勝の後からプレー
　筆者は、北海道クラシックで、滅多にない幸運に恵まれた経験がある。
　平成13年７月14日、北海道クラシックで行われていた日本アマチュア選手権決勝日　宮里優作×金旲渉（韓国）の優勝争いの、すぐ後からプレーすることができた。
　コースセッッティングは、選手権そのままだ。当然、各ホールともピン位置はきびしかった。10番ホールでは、池の上にせり出した高いグリーンの池側いっぱいにフラッグが翻っていて、アマ・チャンピオンの戦略水準の高さ、恐さに、膽を冷やしたりしたものだ。
　結局、最終ラウンド（36ホール）の途中まで３ダウンと後れをとっていた宮里は、最後のアウトでイーブンに戻し、28ホール目では、目の醒めるバックスピンで30センチに止め、３＆２で優勝。日本ジュニア、日本学生を含め、アマチュア３冠を達成した。
　
所在地　　　　　　北海道勇払郡安平町早来富岡406
コース規模　　　18ホール・7059ヤード・パー72
　　　　　　　　　　　コースレート　　　73.8
設　 計　　　　　　ジャック・ニクラス
開場日　　　　　　平成３年６月８日
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>ニクラス「私の自信作」と語る</strong></p>
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<dl id="attachment_635" class="wp-caption alignright" style="width: 460px;">
<dt id="[object]" class="wp-caption-dt"><a id="[object]" href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/01/mini1.jpg"><img id="[object]" class="size-full wp-image-635  " title="北海道クラシック・ゴルフクラブ　本棟と食堂が別棟になったクラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/01/mini1.jpg" alt="北海道クラシック・ゴルフクラブ　本棟と食堂が別棟になったクラブハウス" width="450" height="172" /></a></dt>
<dd class="wp-caption-dd">北海道クラシック・ゴルフクラブ　本棟と食堂が別棟になったクラブハウス</dd>
</dl>
</div>
<p id="[object]">　北海道クラシックのコースについては、完成する前から、筆者には、憧れに似た期待があった。設計者の帝王ジャック・ニクラスが、このコースについて、<br />
　「ここは、米国の名門ゴルフリゾート・パインハーストを連想させる」と語り、<br />
　「今、日本の北海道で、私の自信作を造っている」<br />
　と、珍しく多辯だった。平成３年６月８日開場後には、「北海道クラシックは、私が日本で設計したコースのうちの最上の作品だ」という意味を語ったコメントを紙上で読んだりした。こうして筆者の中のクラシック憧憬はより深くなった。<br />
　筆者を含めた内地のゴルファーには、北海道へ飛ぶ飛行機の中で、一つの期待がある。それは、北海道という大きな大地につくられた大きなゴルフコースへの憧れだ。内地のコースは、箱庭コース、ガーデンスタイルだ。北海道なら違うと期待したが、意外にも既設のコースは、輪厚も島松もクラークも札樽、室蘭も、内地型のガーデンタイプを出ていなかった。設計者も母体企業も施工業者も内地派遣だから、そうなるか、と落胆。その分“本物の北海道コース”への憧れは募っていった。<br />
　そこに帝王ニクラス登場である。ニクラスなら本物の北海道の自然の大きさ、雄渾さをコース設計の上に提案してくれるだろう、そういう期待が、北海道クラシックの上に描かれた時期があった。</p>
<p><strong>チャレンジを要求する戦略設計</strong></p>
<div id="attachment_637" class="wp-caption alignright" style="width: 460px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/01/mini2.jpg"><img class="size-full wp-image-637 " title="北海道クラシック・ゴルフクラブ　フェアウェイに長い水景を伴走させた１６番（パー５）ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2012/01/mini2.jpg" alt="北海道クラシック・ゴルフクラブ　フェアウェイに長い水景を伴走させた１６番（パー５）ホール" width="450" height="174" /></a><p class="wp-caption-text">北海道クラシック・ゴルフクラブ　フェアウェイに長い水景を伴走させた１６番（パー５）ホール</p></div>
<p id="[object]">　ニクラスに、「米国の名門リゾート・パインハーストを連想させる」といわせた、北海道クラシックの用地はどんな環境だったか。<br />
　このコースは、全域が柏（かしわ）の原生林で、数限りない葉裏が風にそよいでいて眩しいほどだ。柏の木は、高くなりすぎないのが特徴、３メートル弱で刈り揃えたような林立が続く。20年前のコース周辺には、森林のほか小さい湖沼と牧場が拡がっていて、隣は、名馬テンポイントを生んだ吉田牧場だった。<br />
　こうした土地柄から、このコースには、ゴルフ場の雰囲気を超えてスポーツフィールドの爽やかさが溢れていた。それが、ニクラスに、名門ゴルフリゾート・パインハーストを連想させたのである。<br />
　北海道クラシックの18ホールには、Ｊ・ニクラスの設計思想が満載されている。プロゴルフ出ではない、専門職業設計家のＲ・Ｔジョーンズ・ジュニアが、<br />
　「彼のコースは、自分のゲームに基づいて設計されています。ロング・ボールを打ち、高く上がるショットで小さなグリーンに乗せなければなりません。それが彼のプレーのやり方です」と語っているような、そんなニクラスの設計思想が満載されているのだ。<br />
　特に、６番（401Ｙ・Ｐ４）、10番（525Ｙ・Ｐ５）、17番（163Ｙ・Ｐ３）、18番（448Ｙ・Ｐ４）の水際設計は、きびしくも非凡である。<br />
　中でも忘れられない難ホールは、10番ホールである。否、名ホールである。<br />
　フェアウェイは２本である。左のそれは大池の上に浮かび、右のフェアウェイは、右の岸辺柏の林間に伸びている。左の水上のフェアウェイは、第２打で高さ７、８メートル上のグリーンを池越えで狙うドラスティックな攻略ルートだ。右の陸のフェアウェイは、３オン狙いの設計だが、グリーンまでに深いクロスバンカー、装飾バンカー、そしてフェアウェイをしぼる立木を並べて、飛球の空間は狭い。やっと辿りついたグリーンは、大池の上に高く突き出した半島の上に小さい。ストレスのたまる造りだ。<br />
　どちらのルートを選ぶか、その判断はティグラウンド上で求められている。<br />
　６番、18番は、似たような戦略設計だ。パー４の６番は第２打、パー５の18番は第３打で、残る170～180メートルをダウンヒルから打つ池越えとして設計している。池の手前でのレイアップを嫌いダウンヒルにしたのだ。ニクラスはチャレンジを求めているのである。これがニクラスの本領。両コースがシングルプレーヤーに喜ばれる理由もそこにある。<br />
　17番（パー３）は、大池の上、10番グリーンの対岸にあり、水面から10メートルの半島いや岬の上にグリーンを置いている。グリーンは陸側から岬の突端へ横長で奥へ浅い。ピンが右にある時と左のフラッグと、その戦略的迫力は比較にならない。精緻な名ホールだ。</p>
<p><strong>日本アマ決勝の後からプレー</strong></p>
<p id="[object]">　筆者は、北海道クラシックで、滅多にない幸運に恵まれた経験がある。<br />
　平成13年７月14日、北海道クラシックで行われていた日本アマチュア選手権決勝日　宮里優作×金旲渉（韓国）の優勝争いの、すぐ後からプレーすることができた。<br />
　コースセッッティングは、選手権そのままだ。当然、各ホールともピン位置はきびしかった。10番ホールでは、池の上にせり出した高いグリーンの池側いっぱいにフラッグが翻っていて、アマ・チャンピオンの戦略水準の高さ、恐さに、膽を冷やしたりしたものだ。<br />
　結局、最終ラウンド（36ホール）の途中まで３ダウンと後れをとっていた宮里は、最後のアウトでイーブンに戻し、28ホール目では、目の醒めるバックスピンで30センチに止め、３＆２で優勝。日本ジュニア、日本学生を含め、アマチュア３冠を達成した。<br />
　<br />
所在地　　　　　　北海道勇払郡安平町早来富岡406<br />
コース規模　　　18ホール・7059ヤード・パー72<br />
　　　　　　　　　　　コースレート　　　73.8<br />
設　 計　　　　　　ジャック・ニクラス<br />
開場日　　　　　　平成３年６月８日</p>
]]></content:encoded>
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		<title>第56回　ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン</title>
		<link>http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=616</link>
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		<pubDate>Tue, 27 Dec 2011 07:05:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanobe</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[名コースめぐり]]></category>

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		<description><![CDATA[「日本にセントアンドリュースを造る」
　　－時代の先を走った浜田善弥の大構想－
　英国スコットランドのセント・アンドリュース・オールドコースは、世界のゴルファーにとっての“ホーム・オブ・ゴルフ”である。ゴルフの聖地、世界のゴルファーが、生涯一度は訪れ、プレーしたいと憧れるコースである。
　昭和40年代前期、ある人物が、
　“日本にセントアンドリュース・オールドコースを造る”
　とぶち上げた。粗製乱造の新設ブームに疲れていた日本ゴルフ界はびっくり仰天、嘘だろうと訝る者もいた。怪物「ニューセントアンドリュース　ゴルフクラブ・ジャパン（N・S・A・J）」の登場である。しかもそのコースは、もう一つ人気世界最高のプロゴルファー、ジャック・ニクラスの設計処女作という大話題を抱えていた。
　日本にセント・アンドリュース・オールドコースを創るという、日本ゴルフ界の常識を遥かに超えた事業を提起した男は、浜田善弥。霞台ＣＣ（茨城県）に一時関係していたがゴルフ業界人ではない。東京大学哲学科出の演劇人である。東京赤坂見附の大十字路を四谷見附方面へ上る三角点の一画、赤坂元町に事務所を構え、そこに浜田善弥劇場をつくり一種の前衛劇を演じていた。　セントアンドリュースゴルフクラブを手本にゴルフ場をつくるのも、一種の文化的なイデオローグ的な仕事だったのかもしれない。ゴルフ場経営とは別のパラダイムの世界を生きている人物だった。
　筆者も、再三赤坂元町の事務所を訪れ取材したが、さらに沖縄、伊豆、福島などにもゴルフ場の構想を持っていて、その構想は壮大、斬新なものだった。
　計画は、栃木県大田原市の山地に18ホールを造成する構想だった。しかし用地は起伏のある丘陵、セントアンドリュースのリンクスとは大違い。交通も、新幹線も東北高速道もなく、東京から車で２時間。魅力は、本場セント・アンドリュースの指導と人気プロジャック・ニクラスの処女設計が中心だった。
　昭和45年募集開始。第１次は200万円粗製乱造の新設ブームの中で、Ｊ・ニクラス設計の魅力は大きかった。快調にスタートしたが資金計画が大きすぎ、第１次石油ショックの痛手、最後は東京から２時間という遠距離もあって、昭和50年に開場したものの、昭和52年会員7000名、約100億円の負債を抱えて倒産してしまった。
　しかし会員有志は、会員の東芝常務高瀬正一を中心に、「ＮＳＡＪをよくする会」を結成、7000名の会員のうち3000名から16億2479万円を集めて、1978年９月、競売にかけられた同コースを20億2000万円で落札、再建に乗り出した。初代社長高瀬正一、２代目長島範明。その長島社長と筆者の再建をめぐる次のような対談が残っている。
　――浜田善弥は経営に失敗したから“悪名”だけを残した気配があるが
　長島　彼の着想はちょっと桁外れに進んでいた。しかし残念ながら数字というか財務管理に不向きだった。
　――カネ勘定していたらこのコースはできなかったでしょう。浜田善弥は、時代より１歩も、10歩も早かったというか、時代が彼に追いつけなかった。ゴルフ場だけでなく前衛的な浜田善弥劇場をつくるなど一種の文化的イデオロギーだった。
　長島　彼は、クラブの在り方でも、たとえば、理事を選挙制、任期４年にするなどセントアンドリュースのＲ＆Ａに学ぼうとしていました。日本では理事は殆んど名誉職、任期もないですから。（因みにＲ＆Ａの理事は、任期１年である。）
帝王Ｊ・ニクラスの処女作
　経営失敗したコースを会員の力で競落、再建した例は他にも多い。しかし2500人もの多数が一致団結した例はＮＳＡＪに限られる。なぜ大きな会員の団結が生れたのか。
　理由の第１は、やはり帝王Ｊ・ニクラスの処女設計という魅力だったろう。ゴルフ理解の深い人ほど、終生のホームコースとしては、天才の戦略性をよろこんだ筈だからだ。
　このコースは、ジャック・ニクラスが、設計会社を設立する前、一人のプロ・プレーヤーだった頃に設計した第１号、処女作だとされている。しかしそう断言するには、些か躊いもある。
　ＮＳＡＪニューコースの開場は、昭和50年。
　1969年（昭和44年）ニクラスは、ピート・ダイとの共作でハーバー・タウンを設計。以後1974年（昭和49年）までは、ピート・ダイ、Ｄ・ミュアヘッドとの共同設計が続く。
　ニクラスの単独設計は、1974年カナダのグレン・アピーが初め。1974年は昭和49年ＮＳＡＪの開場に先立つこと１年である。
　待て待て、ＮＳＡＪは２番目か？いや、ＮＳＡＪは着工から完成まで５年を要している。つまりニクラスの設計図は昭和45年に出来上って、施工段階に入っていた筈である。そう考えると、まぎれもなく処女作である。ニクラスが、コースデザイン・カンパニーを設立する前、プレーヤー・ニクラスの処女作品である。
　なぜ“処女作品検証”にこだわるか。フルタイムの設計者になる前のプレーヤーＪ・ニクラスの戦略性を知るための絶好の材料になるからだ。
　ＮＳＡＪのコースガイドによると、「後にニクラス自身が、少しハードに設計し過ぎたと反省したほどタフなアメリカンスタイル」と紹介している。ニクラスはこのコースを初ラウンドしたとき“43”を叩いたという伝説もある。
「難し過ぎた」とニクラスの嘆き
　「難し過ぎた」とプレーヤー・ニクラスが嘆息したＮＳＡＪニューコースは、どのように攻め難いか。コース全体では、随所にひろがる池、グリーン間際の深くて大きいバンカー（これはアイルランドのインランドを思わせる）グリーンは小さくて固い、その硬さは尋常ではない。アイルランドのものだ。しかも奥行きが浅く横長が多い。横から攻めるつくりだから、正面から攻めると、直前の大バンカーに呑まれるか、間違いなく背後へコロコロである。その代表例が、２番（376ヤード・パー４）である。
　１番（442ヤード・パー４）は、右側に絡む大きな“池の水際戦路”をティからグリーン間際まで伴走させて、横長の細いグリーンを狙うに２打か３打か微妙。インコースはやや趣きが変わる。13番（409ヤード・パー４）は深い奥行のある樹影の中に、アーリーアメリカン風の姿を展開し、16番（375ヤード・パー４）は、スルーザ・グリーンの中央に、三重の滝でつないだ幅広のクリークを縦走させ、“川の水際戦略”を提案しているが、ここに見えるのは13番と対比した、Ｐ・ダイ以後のニュー・アメリカンスタイルである。
　このようにこのコースはいろいろな表情を見せ、いろいろな形の難度で挑んでくる。ニクラスが、これほどきびしい戦略を採用したのはなぜか、それはプレーヤー・ニクラスが、プレーヤーとしての絶頂期に設計したからであろう。
　プレーヤー出身でない設計家Ｒ・Ｔ・ジョーンズ・ジュニアは、ニクラス設計を評して次のように語っている。
　「彼のコースは、自分のゲームに基づいて設計されています。ロングボールを打ち、高く上がるショットで小さなグリーンに乗せなければなりません。それが彼のプレーのやり方ですからです」
　
　会員による再建後のＮＳＡＪは、やや離れ地区に、セントアンドリュース・ＮＳＡＪプロジェクト設計によるオールドコース９ホールを増設。本場オールドコースの雰囲気を偲ぶことができるとしている。またホテルを併設している。
　なお現在は、オリックス・ゴルフ・マネジメントが経営している。
　
所在地　　　　　　栃木県大田原市福原2002
コース規模　　　ニューコース18ホール・6718ヤード・パー72
 　　　　　　　　　　オールドコース９ホール・3392ヤード・パー36
　　　　　　　　　　　コースレート　　　72.5（ニューコース）
設　 計　　　　　　ニューコース　　　　ジャック・ニクラス
　　　　　　　　　　　オールドコース　　セントアンドリュース・ＮＳＡＪ・プロジェクト
開場日　　　　　　昭和50年５月10日
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「日本にセントアンドリュースを造る」<br />
　　－時代の先を走った浜田善弥の大構想－</strong></p>
<div id="attachment_619" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2011/12/mini12.jpg"><img class="size-medium wp-image-619 " title="ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　　　　　　　クラブハウス" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2011/12/mini12-300x210.jpg" alt="ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　クラブハウス" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　　　　　　　クラブハウス</p></div>
<p id="[object]">　英国スコットランドのセント・アンドリュース・オールドコースは、世界のゴルファーにとっての“ホーム・オブ・ゴルフ”である。ゴルフの聖地、世界のゴルファーが、生涯一度は訪れ、プレーしたいと憧れるコースである。<br />
　昭和40年代前期、ある人物が、<br />
　“日本にセントアンドリュース・オールドコースを造る”<br />
　とぶち上げた。粗製乱造の新設ブームに疲れていた日本ゴルフ界はびっくり仰天、嘘だろうと訝る者もいた。怪物「ニューセントアンドリュース　ゴルフクラブ・ジャパン（N・S・A・J）」の登場である。しかもそのコースは、もう一つ人気世界最高のプロゴルファー、ジャック・ニクラスの設計処女作という大話題を抱えていた。<br />
　日本にセント・アンドリュース・オールドコースを創るという、日本ゴルフ界の常識を遥かに超えた事業を提起した男は、浜田善弥。霞台ＣＣ（茨城県）に一時関係していたがゴルフ業界人ではない。東京大学哲学科出の演劇人である。東京赤坂見附の大十字路を四谷見附方面へ上る三角点の一画、赤坂元町に事務所を構え、そこに浜田善弥劇場をつくり一種の前衛劇を演じていた。　セントアンドリュースゴルフクラブを手本にゴルフ場をつくるのも、一種の文化的なイデオローグ的な仕事だったのかもしれない。ゴルフ場経営とは別のパラダイムの世界を生きている人物だった。<br />
　筆者も、再三赤坂元町の事務所を訪れ取材したが、さらに沖縄、伊豆、福島などにもゴルフ場の構想を持っていて、その構想は壮大、斬新なものだった。<br />
　計画は、栃木県大田原市の山地に18ホールを造成する構想だった。しかし用地は起伏のある丘陵、セントアンドリュースのリンクスとは大違い。交通も、新幹線も東北高速道もなく、東京から車で２時間。魅力は、本場セント・アンドリュースの指導と人気プロジャック・ニクラスの処女設計が中心だった。<br />
　昭和45年募集開始。第１次は200万円粗製乱造の新設ブームの中で、Ｊ・ニクラス設計の魅力は大きかった。快調にスタートしたが資金計画が大きすぎ、第１次石油ショックの痛手、最後は東京から２時間という遠距離もあって、昭和50年に開場したものの、昭和52年会員7000名、約100億円の負債を抱えて倒産してしまった。<br />
　しかし会員有志は、会員の東芝常務高瀬正一を中心に、「ＮＳＡＪをよくする会」を結成、7000名の会員のうち3000名から16億2479万円を集めて、1978年９月、競売にかけられた同コースを20億2000万円で落札、再建に乗り出した。初代社長高瀬正一、２代目長島範明。その長島社長と筆者の再建をめぐる次のような対談が残っている。<br />
　――浜田善弥は経営に失敗したから“悪名”だけを残した気配があるが<br />
　長島　彼の着想はちょっと桁外れに進んでいた。しかし残念ながら数字というか財務管理に不向きだった。<br />
　――カネ勘定していたらこのコースはできなかったでしょう。浜田善弥は、時代より１歩も、10歩も早かったというか、時代が彼に追いつけなかった。ゴルフ場だけでなく前衛的な浜田善弥劇場をつくるなど一種の文化的イデオロギーだった。<br />
　長島　彼は、クラブの在り方でも、たとえば、理事を選挙制、任期４年にするなどセントアンドリュースのＲ＆Ａに学ぼうとしていました。日本では理事は殆んど名誉職、任期もないですから。（因みにＲ＆Ａの理事は、任期１年である。）</p>
<p><strong>帝王Ｊ・ニクラスの処女作</strong></p>
<div id="attachment_621" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2011/12/mini32.jpg"><img class="size-medium wp-image-621  " title="ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　　　　　　　３番ホール　グリーンまわり" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2011/12/mini32-300x210.jpg" alt="ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　３番ホール　グリーンまわり" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　　　　　　　３番ホール　グリーンまわり</p></div>
<p id="[object]">　経営失敗したコースを会員の力で競落、再建した例は他にも多い。しかし2500人もの多数が一致団結した例はＮＳＡＪに限られる。なぜ大きな会員の団結が生れたのか。<br />
　理由の第１は、やはり帝王Ｊ・ニクラスの処女設計という魅力だったろう。ゴルフ理解の深い人ほど、終生のホームコースとしては、天才の戦略性をよろこんだ筈だからだ。<br />
　このコースは、ジャック・ニクラスが、設計会社を設立する前、一人のプロ・プレーヤーだった頃に設計した第１号、処女作だとされている。しかしそう断言するには、些か躊いもある。<br />
　ＮＳＡＪニューコースの開場は、昭和50年。<br />
　1969年（昭和44年）ニクラスは、ピート・ダイとの共作でハーバー・タウンを設計。以後1974年（昭和49年）までは、ピート・ダイ、Ｄ・ミュアヘッドとの共同設計が続く。<br />
　ニクラスの単独設計は、1974年カナダのグレン・アピーが初め。1974年は昭和49年ＮＳＡＪの開場に先立つこと１年である。<br />
　待て待て、ＮＳＡＪは２番目か？いや、ＮＳＡＪは着工から完成まで５年を要している。つまりニクラスの設計図は昭和45年に出来上って、施工段階に入っていた筈である。そう考えると、まぎれもなく処女作である。ニクラスが、コースデザイン・カンパニーを設立する前、プレーヤー・ニクラスの処女作品である。<br />
　なぜ“処女作品検証”にこだわるか。フルタイムの設計者になる前のプレーヤーＪ・ニクラスの戦略性を知るための絶好の材料になるからだ。<br />
　ＮＳＡＪのコースガイドによると、「後にニクラス自身が、少しハードに設計し過ぎたと反省したほどタフなアメリカンスタイル」と紹介している。ニクラスはこのコースを初ラウンドしたとき“43”を叩いたという伝説もある。</p>
<p><strong>「難し過ぎた」とニクラスの嘆き</strong></p>
<div id="attachment_623" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2011/12/mini22.jpg"><img class="size-medium wp-image-623 " title="ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　　　　　　　２番ホール" src="http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/wp-content/uploads/2011/12/mini22-300x210.jpg" alt="ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　２番ホール" width="300" height="210" /></a><p class="wp-caption-text">ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン　　　　　　　２番ホール</p></div>
<p id="[object]">　「難し過ぎた」とプレーヤー・ニクラスが嘆息したＮＳＡＪニューコースは、どのように攻め難いか。コース全体では、随所にひろがる池、グリーン間際の深くて大きいバンカー（これはアイルランドのインランドを思わせる）グリーンは小さくて固い、その硬さは尋常ではない。アイルランドのものだ。しかも奥行きが浅く横長が多い。横から攻めるつくりだから、正面から攻めると、直前の大バンカーに呑まれるか、間違いなく背後へコロコロである。その代表例が、２番（376ヤード・パー４）である。<br />
　１番（442ヤード・パー４）は、右側に絡む大きな“池の水際戦路”をティからグリーン間際まで伴走させて、横長の細いグリーンを狙うに２打か３打か微妙。インコースはやや趣きが変わる。13番（409ヤード・パー４）は深い奥行のある樹影の中に、アーリーアメリカン風の姿を展開し、16番（375ヤード・パー４）は、スルーザ・グリーンの中央に、三重の滝でつないだ幅広のクリークを縦走させ、“川の水際戦略”を提案しているが、ここに見えるのは13番と対比した、Ｐ・ダイ以後のニュー・アメリカンスタイルである。<br />
　このようにこのコースはいろいろな表情を見せ、いろいろな形の難度で挑んでくる。ニクラスが、これほどきびしい戦略を採用したのはなぜか、それはプレーヤー・ニクラスが、プレーヤーとしての絶頂期に設計したからであろう。<br />
　プレーヤー出身でない設計家Ｒ・Ｔ・ジョーンズ・ジュニアは、ニクラス設計を評して次のように語っている。<br />
　「彼のコースは、自分のゲームに基づいて設計されています。ロングボールを打ち、高く上がるショットで小さなグリーンに乗せなければなりません。それが彼のプレーのやり方ですからです」<br />
　<br />
　会員による再建後のＮＳＡＪは、やや離れ地区に、セントアンドリュース・ＮＳＡＪプロジェクト設計によるオールドコース９ホールを増設。本場オールドコースの雰囲気を偲ぶことができるとしている。またホテルを併設している。<br />
　なお現在は、オリックス・ゴルフ・マネジメントが経営している。<br />
　<br />
所在地　　　　　　栃木県大田原市福原2002<br />
コース規模　　　ニューコース18ホール・6718ヤード・パー72<br />
 　　　　　　　　　　オールドコース９ホール・3392ヤード・パー36<br />
　　　　　　　　　　　コースレート　　　72.5（ニューコース）<br />
設　 計　　　　　　ニューコース　　　　ジャック・ニクラス<br />
　　　　　　　　　　　オールドコース　　セントアンドリュース・ＮＳＡＪ・プロジェクト<br />
開場日　　　　　　昭和50年５月10日</p>
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