戦前の名門広島GCの「兄」と「弟」
広島県下第1号のゴルフ場は、昭和4年5月、加茂郡原村八本松にオープンした広島ゴルフ倶楽部である。岡山霞橋ゴルフ倶楽部(昭和5年開場)より1年早い。中国地方のファーストランである。
広島県下には、2つの名門倶楽部がある。現在の広島ゴルフ倶楽部と広島カンツリー倶楽部(西條コース、八本松コース)だ。名称は僅かに違うが、親は一つ、両倶楽部を分かつたのは戦争、そして原爆被災だった。歴史を辿ってみよう。
戦前の広島ゴルフ倶楽部は、初め12ホール・パー48でスタート。原村コースあるいは八本松リンクスと呼ばれていた。設計は天野進作、中村尋。一年後増設、18ホールとなる。中国地方唯一の18ホールズだった。そして太平洋戦争。昭和17年暁部隊演習場として陸軍が接収、閉鎖。そして終戦。コース跡は広島大学水畜産部の演習林(加茂農場)となっていて、止むを得ず、戦後再発足の広島ゴルフ倶楽部は、昭和27年11月、広島市西郊鈴ヶ峰に6ホール・1395ヤードのショートコースとして、形ばかりの復活を果した。29年9ホール、現在の広島ゴルフ倶楽部鈴ヶ峰コースである。思い通りの復活が成らなかったのはなぜか。『鈴ヶ峰50年史』は、「会員の大多数が戦災死し…」と書く。戦災死とは原爆被災死である。昭和49年8月ようやく18ホールとなる。
昭和30年、広島GCの残党のもう一つのグループが、「9ホールでは飽き足らず…」、旧コース跡の東隣西條盆地に、丸毛信勝設計の18ホール、広島カンツリー倶楽部西條コースを開場する。
しかし10年経てば事情も転換する。広島大の加茂農場が移転した。その跡即ち戦前の広島GCの跡地に、昭和38年11月17日、広島カンツリー倶楽部八本松コース(上田治設計)18ホールが復活した。
現在の八本松コース内には、旧コースの遺跡が残っている。5番ホール横には戦前の旧広島GC15番ホールの跡を記念する碑文が建てられ、9番ホール右の松林には、広島大演習林加茂農場のサイロが残っている。
こう見てくると、同じ父の血を受けながら、三男坊の八本松コースこそ、戦前派広島GC八本松リンクスの承継者といえそうだ。
赤松の幹立ちの魔術師・上田治
広島CC八本松コースは、上田治第1の代表作といわれたことがある。
平成1年に取材ラウンドした時、当時の総支配人河内康氏から、
「西日本には、古賀GC、下関GC、大阪GCなど上田治設計のコースが多いが、原設計をそのまま残しているのは、八本松コースだけだと思いますよ」
と聞いたことがある。平成16年の日本女子オープンを前に、2グリーンから1グリーンに改造される前の話であるが、八本松コースが、上田治設計のシンボリックな代表作であることに変りはない。
上田治は、このコースを設計する際、旧コース時代から受け継いだ背の高い樹齢数百年の赤松の独立樹を主体に、①OBはつくらない。②ローカルルールめいた設計を避ける。③変則スウィングを打たせるようなアップダウンはなし、という3原則で設計したといわれている。特に、巨松の独立樹の扱い方は、風趣としても戦略としても、秀逸である。
地名が八本松である。コースには赤松の巨松が目立つ。フェアウェイは、松林の中を縫って伸びている。そのフェアウェイ上には高い一本松が仁王立ちしていたりする。グリーンの門口(昔流にいえばエプロンの場所)には2本の大きな松の幹立ちが並び、ドッグレッグの曲り角には、ひと際目立つ高い松が立つ。ティに立つと2グリーンの筈が、見えるのは、左グリーンだけである。敏感なゴルフ理解のある人なら、“アレ、上田治は井上誠一と並んで2グリーンの生みの親といわれているが、ほんとは1グリーン主義か”と忖度しとたくなるシーンがいくつもある。
このように八本松コースの上田治は、松の幹立を、戦略ラインの立役者として、大きな役目を担わせているのだ。
林間コースとは、フェアウェイの両側に林が伴走している風趣だけを言うのではない。たとえば、老松と老松の間を打ち抜いてゆく2番ホールの第1打の厳しさ、10番ホールでは、190ヤード地点のメタセコイアの右へラインを誤ったときの、2打、3打の苦しさのように、1本あるいは数本の幹立ち、独立樹が主役となっての緊迫感を持たせているのが、本物の林間コースである。
その意味で八本松コースは、まぎれもない林間コースの一流傑作である。
1グリーンとしての八本松コース
上田治は、京都大学在学中から、廣野GCの設計、造成で来日していたC・Hアリソンの技術、美学を目で見て影響を受けている。2グリーン主義である筈はない。しかし彼は、八本松コースを含め多くの2グリーンを造っている。芝をめぐる技術の後進国日本ならではの、止むを得ない妥協だった。その中で上田は、八本松の1、2、4、6、9、10、12、13、16、17番ホールで、赤松という大きなバーチカル(直立)ハザードを配置することで、プレー上は、グリーンが一つしか見えないシーンをデザインしている。それは、設計者上田治の美学的な苦衷(本音)の表現だったのではないか。そして平成16年の1グリーン改造によって、その苦衷の時代は終り、本音を殺して妥協していた本来の上田美学、戦略性が1グリーンの今その姿を見せているのではないだろうか。
ひと昔前、ここで行われていたヨネックスオープンで、同一大会最多勝記録タイの9勝を挙げたジャンボ尾崎は、八本松コースについて、
「林間コースは目標がとりやすい」
と語っている。対してつぎのような意見もある。
「今のクラブ、ボールはひたすら飛距離を求めて進化、300ヤードを超えて飛ぶ。しかし第2打でインテンショナル(意図的)ボールが打てない。スタイミーな松を前に立ち往生するシーンが増えます」(ゴルフコース設計者協会会長当時の大西久光氏談)
八本松コースの赤松の老松は、今後は、バーチカルハザードとして、プレーヤーを悩ませるのだろうか。
所在地 広島県東広島市八本松町原11083-1
コース規模 18ホール・7035ヤード・パー72
コースレート 73.7
設 計 上田 治
開場日 平成38年11月17日
コースレコード (プロ)S・K・ホ 61
1 月 28th, 2012 in
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ニクラス「私の自信作」と語る

- 北海道クラシック・ゴルフクラブ 本棟と食堂が別棟になったクラブハウス
北海道クラシックのコースについては、完成する前から、筆者には、憧れに似た期待があった。設計者の帝王ジャック・ニクラスが、このコースについて、
「ここは、米国の名門ゴルフリゾート・パインハーストを連想させる」と語り、
「今、日本の北海道で、私の自信作を造っている」
と、珍しく多辯だった。平成3年6月8日開場後には、「北海道クラシックは、私が日本で設計したコースのうちの最上の作品だ」という意味を語ったコメントを紙上で読んだりした。こうして筆者の中のクラシック憧憬はより深くなった。
筆者を含めた内地のゴルファーには、北海道へ飛ぶ飛行機の中で、一つの期待がある。それは、北海道という大きな大地につくられた大きなゴルフコースへの憧れだ。内地のコースは、箱庭コース、ガーデンスタイルだ。北海道なら違うと期待したが、意外にも既設のコースは、輪厚も島松もクラークも札樽、室蘭も、内地型のガーデンタイプを出ていなかった。設計者も母体企業も施工業者も内地派遣だから、そうなるか、と落胆。その分“本物の北海道コース”への憧れは募っていった。
そこに帝王ニクラス登場である。ニクラスなら本物の北海道の自然の大きさ、雄渾さをコース設計の上に提案してくれるだろう、そういう期待が、北海道クラシックの上に描かれた時期があった。
チャレンジを要求する戦略設計

北海道クラシック・ゴルフクラブ フェアウェイに長い水景を伴走させた16番(パー5)ホール
ニクラスに、「米国の名門リゾート・パインハーストを連想させる」といわせた、北海道クラシックの用地はどんな環境だったか。
このコースは、全域が柏(かしわ)の原生林で、数限りない葉裏が風にそよいでいて眩しいほどだ。柏の木は、高くなりすぎないのが特徴、3メートル弱で刈り揃えたような林立が続く。20年前のコース周辺には、森林のほか小さい湖沼と牧場が拡がっていて、隣は、名馬テンポイントを生んだ吉田牧場だった。
こうした土地柄から、このコースには、ゴルフ場の雰囲気を超えてスポーツフィールドの爽やかさが溢れていた。それが、ニクラスに、名門ゴルフリゾート・パインハーストを連想させたのである。
北海道クラシックの18ホールには、J・ニクラスの設計思想が満載されている。プロゴルフ出ではない、専門職業設計家のR・Tジョーンズ・ジュニアが、
「彼のコースは、自分のゲームに基づいて設計されています。ロング・ボールを打ち、高く上がるショットで小さなグリーンに乗せなければなりません。それが彼のプレーのやり方です」と語っているような、そんなニクラスの設計思想が満載されているのだ。
特に、6番(401Y・P4)、10番(525Y・P5)、17番(163Y・P3)、18番(448Y・P4)の水際設計は、きびしくも非凡である。
中でも忘れられない難ホールは、10番ホールである。否、名ホールである。
フェアウェイは2本である。左のそれは大池の上に浮かび、右のフェアウェイは、右の岸辺柏の林間に伸びている。左の水上のフェアウェイは、第2打で高さ7、8メートル上のグリーンを池越えで狙うドラスティックな攻略ルートだ。右の陸のフェアウェイは、3オン狙いの設計だが、グリーンまでに深いクロスバンカー、装飾バンカー、そしてフェアウェイをしぼる立木を並べて、飛球の空間は狭い。やっと辿りついたグリーンは、大池の上に高く突き出した半島の上に小さい。ストレスのたまる造りだ。
どちらのルートを選ぶか、その判断はティグラウンド上で求められている。
6番、18番は、似たような戦略設計だ。パー4の6番は第2打、パー5の18番は第3打で、残る170~180メートルをダウンヒルから打つ池越えとして設計している。池の手前でのレイアップを嫌いダウンヒルにしたのだ。ニクラスはチャレンジを求めているのである。これがニクラスの本領。両コースがシングルプレーヤーに喜ばれる理由もそこにある。
17番(パー3)は、大池の上、10番グリーンの対岸にあり、水面から10メートルの半島いや岬の上にグリーンを置いている。グリーンは陸側から岬の突端へ横長で奥へ浅い。ピンが右にある時と左のフラッグと、その戦略的迫力は比較にならない。精緻な名ホールだ。
日本アマ決勝の後からプレー
筆者は、北海道クラシックで、滅多にない幸運に恵まれた経験がある。
平成13年7月14日、北海道クラシックで行われていた日本アマチュア選手権決勝日 宮里優作×金旲渉(韓国)の優勝争いの、すぐ後からプレーすることができた。
コースセッッティングは、選手権そのままだ。当然、各ホールともピン位置はきびしかった。10番ホールでは、池の上にせり出した高いグリーンの池側いっぱいにフラッグが翻っていて、アマ・チャンピオンの戦略水準の高さ、恐さに、膽を冷やしたりしたものだ。
結局、最終ラウンド(36ホール)の途中まで3ダウンと後れをとっていた宮里は、最後のアウトでイーブンに戻し、28ホール目では、目の醒めるバックスピンで30センチに止め、3&2で優勝。日本ジュニア、日本学生を含め、アマチュア3冠を達成した。
所在地 北海道勇払郡安平町早来富岡406
コース規模 18ホール・7059ヤード・パー72
コースレート 73.8
設 計 ジャック・ニクラス
開場日 平成3年6月8日
1 月 17th, 2012 in
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「日本にセントアンドリュースを造る」
-時代の先を走った浜田善弥の大構想-

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン クラブハウス
英国スコットランドのセント・アンドリュース・オールドコースは、世界のゴルファーにとっての“ホーム・オブ・ゴルフ”である。ゴルフの聖地、世界のゴルファーが、生涯一度は訪れ、プレーしたいと憧れるコースである。
昭和40年代前期、ある人物が、
“日本にセントアンドリュース・オールドコースを造る”
とぶち上げた。粗製乱造の新設ブームに疲れていた日本ゴルフ界はびっくり仰天、嘘だろうと訝る者もいた。怪物「ニューセントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン(N・S・A・J)」の登場である。しかもそのコースは、もう一つ人気世界最高のプロゴルファー、ジャック・ニクラスの設計処女作という大話題を抱えていた。
日本にセント・アンドリュース・オールドコースを創るという、日本ゴルフ界の常識を遥かに超えた事業を提起した男は、浜田善弥。霞台CC(茨城県)に一時関係していたがゴルフ業界人ではない。東京大学哲学科出の演劇人である。東京赤坂見附の大十字路を四谷見附方面へ上る三角点の一画、赤坂元町に事務所を構え、そこに浜田善弥劇場をつくり一種の前衛劇を演じていた。 セントアンドリュースゴルフクラブを手本にゴルフ場をつくるのも、一種の文化的なイデオローグ的な仕事だったのかもしれない。ゴルフ場経営とは別のパラダイムの世界を生きている人物だった。
筆者も、再三赤坂元町の事務所を訪れ取材したが、さらに沖縄、伊豆、福島などにもゴルフ場の構想を持っていて、その構想は壮大、斬新なものだった。
計画は、栃木県大田原市の山地に18ホールを造成する構想だった。しかし用地は起伏のある丘陵、セントアンドリュースのリンクスとは大違い。交通も、新幹線も東北高速道もなく、東京から車で2時間。魅力は、本場セント・アンドリュースの指導と人気プロジャック・ニクラスの処女設計が中心だった。
昭和45年募集開始。第1次は200万円粗製乱造の新設ブームの中で、J・ニクラス設計の魅力は大きかった。快調にスタートしたが資金計画が大きすぎ、第1次石油ショックの痛手、最後は東京から2時間という遠距離もあって、昭和50年に開場したものの、昭和52年会員7000名、約100億円の負債を抱えて倒産してしまった。
しかし会員有志は、会員の東芝常務高瀬正一を中心に、「NSAJをよくする会」を結成、7000名の会員のうち3000名から16億2479万円を集めて、1978年9月、競売にかけられた同コースを20億2000万円で落札、再建に乗り出した。初代社長高瀬正一、2代目長島範明。その長島社長と筆者の再建をめぐる次のような対談が残っている。
――浜田善弥は経営に失敗したから“悪名”だけを残した気配があるが
長島 彼の着想はちょっと桁外れに進んでいた。しかし残念ながら数字というか財務管理に不向きだった。
――カネ勘定していたらこのコースはできなかったでしょう。浜田善弥は、時代より1歩も、10歩も早かったというか、時代が彼に追いつけなかった。ゴルフ場だけでなく前衛的な浜田善弥劇場をつくるなど一種の文化的イデオロギーだった。
長島 彼は、クラブの在り方でも、たとえば、理事を選挙制、任期4年にするなどセントアンドリュースのR&Aに学ぼうとしていました。日本では理事は殆んど名誉職、任期もないですから。(因みにR&Aの理事は、任期1年である。)
帝王J・ニクラスの処女作

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン 3番ホール グリーンまわり
経営失敗したコースを会員の力で競落、再建した例は他にも多い。しかし2500人もの多数が一致団結した例はNSAJに限られる。なぜ大きな会員の団結が生れたのか。
理由の第1は、やはり帝王J・ニクラスの処女設計という魅力だったろう。ゴルフ理解の深い人ほど、終生のホームコースとしては、天才の戦略性をよろこんだ筈だからだ。
このコースは、ジャック・ニクラスが、設計会社を設立する前、一人のプロ・プレーヤーだった頃に設計した第1号、処女作だとされている。しかしそう断言するには、些か躊いもある。
NSAJニューコースの開場は、昭和50年。
1969年(昭和44年)ニクラスは、ピート・ダイとの共作でハーバー・タウンを設計。以後1974年(昭和49年)までは、ピート・ダイ、D・ミュアヘッドとの共同設計が続く。
ニクラスの単独設計は、1974年カナダのグレン・アピーが初め。1974年は昭和49年NSAJの開場に先立つこと1年である。
待て待て、NSAJは2番目か?いや、NSAJは着工から完成まで5年を要している。つまりニクラスの設計図は昭和45年に出来上って、施工段階に入っていた筈である。そう考えると、まぎれもなく処女作である。ニクラスが、コースデザイン・カンパニーを設立する前、プレーヤー・ニクラスの処女作品である。
なぜ“処女作品検証”にこだわるか。フルタイムの設計者になる前のプレーヤーJ・ニクラスの戦略性を知るための絶好の材料になるからだ。
NSAJのコースガイドによると、「後にニクラス自身が、少しハードに設計し過ぎたと反省したほどタフなアメリカンスタイル」と紹介している。ニクラスはこのコースを初ラウンドしたとき“43”を叩いたという伝説もある。
「難し過ぎた」とニクラスの嘆き

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン 2番ホール
「難し過ぎた」とプレーヤー・ニクラスが嘆息したNSAJニューコースは、どのように攻め難いか。コース全体では、随所にひろがる池、グリーン間際の深くて大きいバンカー(これはアイルランドのインランドを思わせる)グリーンは小さくて固い、その硬さは尋常ではない。アイルランドのものだ。しかも奥行きが浅く横長が多い。横から攻めるつくりだから、正面から攻めると、直前の大バンカーに呑まれるか、間違いなく背後へコロコロである。その代表例が、2番(376ヤード・パー4)である。
1番(442ヤード・パー4)は、右側に絡む大きな“池の水際戦路”をティからグリーン間際まで伴走させて、横長の細いグリーンを狙うに2打か3打か微妙。インコースはやや趣きが変わる。13番(409ヤード・パー4)は深い奥行のある樹影の中に、アーリーアメリカン風の姿を展開し、16番(375ヤード・パー4)は、スルーザ・グリーンの中央に、三重の滝でつないだ幅広のクリークを縦走させ、“川の水際戦略”を提案しているが、ここに見えるのは13番と対比した、P・ダイ以後のニュー・アメリカンスタイルである。
このようにこのコースはいろいろな表情を見せ、いろいろな形の難度で挑んでくる。ニクラスが、これほどきびしい戦略を採用したのはなぜか、それはプレーヤー・ニクラスが、プレーヤーとしての絶頂期に設計したからであろう。
プレーヤー出身でない設計家R・T・ジョーンズ・ジュニアは、ニクラス設計を評して次のように語っている。
「彼のコースは、自分のゲームに基づいて設計されています。ロングボールを打ち、高く上がるショットで小さなグリーンに乗せなければなりません。それが彼のプレーのやり方ですからです」
会員による再建後のNSAJは、やや離れ地区に、セントアンドリュース・NSAJプロジェクト設計によるオールドコース9ホールを増設。本場オールドコースの雰囲気を偲ぶことができるとしている。またホテルを併設している。
なお現在は、オリックス・ゴルフ・マネジメントが経営している。
所在地 栃木県大田原市福原2002
コース規模 ニューコース18ホール・6718ヤード・パー72
オールドコース9ホール・3392ヤード・パー36
コースレート 72.5(ニューコース)
設 計 ニューコース ジャック・ニクラス
オールドコース セントアンドリュース・NSAJ・プロジェクト
開場日 昭和50年5月10日
12 月 27th, 2011 in
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スコティッシュ憧憬ブームのトップラン

伊豆ゴルフ倶楽部 18番グリーン側から見たクラブハウス
昭和61年8月16日、伊豆ゴルフ倶楽部が開場した。リンクスコースの日本初登場である。その日から“突如”といった印象で、日本ゴルフ界に、熱烈なスコットランド憧憬が拡がる。新しく造られるコースの殆んどが、スコットランドのリンクスコースを模倣した突兀としたマウンド群やポットバンカーがつくられ、ジャパニーズ・リンクスコースが乱立した。
そのトップランを走ったのが、伊豆ゴルフ倶楽部(以下伊豆G)だった。しかし伊豆Gは、模倣ではなかった。生真面目だった。もっと根本的な意味で憧れたのである。
伊豆Gコースのアウト区域には、背の高い樹木は一本もなかった。元は茅場だった。
オーナーの有木賢操氏は、この土地柄にふさわしいゴルフコースとは何か、と英国から米国へと、世界中を飛び廻った。そして辿りついたのが、スコットランドのリンクスコースだった。英国のリンクスランドとは、海岸と少し離れた耕作地との間をつなぐ(リンクする)不毛の地域で、そこで牧童たちは穴を掘り、雑草の一部を平たにしてゴルフを遊んだ。
しかし彼は、形を真似ようとしたのではない、「私は、日本に英国のゴルフの真精神を再現したかった」と強調する。
真精神とは何か。彼にそれを悟らせたのは、一枚のゴルフ版画、ゴルフ理解の深いゴルファーならよく知っている「ザ・ゴルファーズ」のキープレートだった。1941年のセント・アンドリユース・オールドで行われたグランドマッチを描いたもので、多くの正装の紳士たちが、画面中央のホールカップに今まさにカップインしようとする寸前の瞬間をとらえたものだ。
一枚のゴルフ名画に感動してー。
有木氏によると、これは単純な絵ではなく、左方と右方の二つの町の人たちが、勝負によって町の境界を決めようとする18番グリーン上の最後の一瞬を描いたものだという。
有木氏の渡英中の観察によると、1950年代のスコットランドでは、70キロ間隔で小さい町が点在していて、平均して3つの町の中間位置にゴルフ場がつくられていたそうだ。町と町の間で揉め事が起きたら、ゴルフマッチで決めるのが一番の平和的解決方法だったようだ。
有木氏は、「英国のゴルフは遊びではない、生命がけの大事を、ゴルフで決することもあったらしい」と語っている。
そしてまた、おおらかな英国のゴルフ精神にも触れたようだ。ロンドン郊外のセント・ジョーズでは、コース周辺の住人が、スルリとコースに入って只でプレーしても、支配人は「グッドモーニング」。支配人氏は、「こっちも窓をこわしたりして迷惑かけている」と大らか。同じくロンドン郊外のウエントワースクラブでは、コースと大邸宅が塀1重で隣り合って並ぶ。邸宅の中には、1ホールつくられていてそこが彼の1番、2番ホールはウエントワースクラブの任意のホール、あと3番、4番とつないで廻る不届者(?)もいたが、クラブ側は知らんぷりという例も(以上、有木氏の体験談)ほんとかと疑いたくなるほどの大らかさだ。
「大切なのは形ではなく、英国ゴルフの心だ」と有木氏はぞっこんである。
“心は形から入る”という諺も

伊豆ゴルフ倶楽部 7番(手前)と8番(池の向う) 山上のリンクス
形よりも心かもしれないが“心は形から入る”という諺もある。有木氏は伊豆Gで英国ゴルフを伝えるために多彩な設計、意匠を凝らしている。
リンクスタイプを大胆に採用したのは、4番(174ヤード・パー3)と7番(328ヤード・パー4)の大きな変化のある共用グリーンである。7番側のグリーン面が、ダイナミックに4番グリーンになだれ込むという大胆設計で印象に残る。因みに、共用グリーンは、セント・アンドリユースのオールドコースが、12ホールから18ホールに改造された際、往復で重なるホールのグリーンを共用グリーンにしたのが始まりとされている。
(私事ですが、伊豆G4番グリーンのホールインワン第1号は、筆者・田野辺です)
因みに、7番フェアウェイ左側には、汀のバンカーが伴走しているが、汀バンカーも本邦初出と思われる。
3番(380ヤード・パー4)は第2打からのフェアウェイが全面砂の海になっていて、これはむしろアメリカンリンクスか。1打の刻みに失敗すると、2、3打がバンカーからとなり苦戦する。
5番(533ヤード・パー5)と6番(429ヤード・パー4)は、有木氏がユンボ(ブルドーザ)を自ら運転して造ったという自慢のホール。フェアウェイ外に置かれたマウンド列とグリーンまわりの詳細設計に、スコティッシュな印象が残る。今では、歳月が経って、いささか目立ちすぎていたマウンドの突兀ぶりが、うまく風化されて独特の味合いになっている。
18番ホールの美しさと難しさ

伊豆ゴルフ倶楽部 18番グリーンまわり
インコースは、スコットランド北部のインランドのコースという風景が続く。こちらは茅場ではなかったので、樹木も少くはない。
印象に残るのは、17番(399ヤード・パー4)と18番(469ヤード・パー4)である。
17番は、ゆるく打上げて約230ヤード地点で右へ90度曲り、かなりの傾斜で上ってグリーンへ。第1打は右側の小高い林を越えて1オンを狙うか、フェアウェイなりに2打でグリーンへ辿り着くか。グリーンは、小さなグリーンをさらに上下2段に分け、上は下よりも1メートルは高いというトリッキー設計だ。17番を終ったら、18番ティへ上る前に、峠の上でクリア・ベルをゴーン。これもスコティッシュだ。
18番は池と汀のバンカーを構えた美しくも戦略的なホールだ。グリーンは、フェアウェイ側からみて、右側に池を構え、花道はクリーク越えの左へ開いている。
写真界の巨匠といわれた木村伊兵衛氏の高弟でしかもシングルプレーヤーの有木賢操氏が、「第2打以降の詳細設計は、私がユンボを運転して造った」と自慢するだけに、背後にクラブハウスを置き、グリーン、汀のバンカー、池(その池は、3段重ねそれぞれ50cmの段差がある)、右の半島と配置した景観が評判。しかしどう攻めるか。飛ばし屋は左から2オンを狙いたがる。しかしスコアメイクにこだわるプレーヤーは、右から3オンのパーセーブが賢いか。ラッキーはない、と心しておくべきホールである。日本アマ4回制覇の名手が、3度池ポチャしたという難ホールである。
クラブハウス隣接で、ホテル・モンベルテがあり、温泉つき、30室。
所在地 静岡県伊豆市地蔵堂845-67
コース規模 18ホール・7136ヤード・パー72
コースレート 未査定
設 計 加藤 俊輔
開場日 昭和61年8月16日
12 月 19th, 2011 in
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プロローグ・・・・・“アリソンの孫”

城陽カントリー倶楽部 クラブハウス
2003年(平成15年)正月、筆者は、あるゴルフ雑誌の「日本のメンバーシップ・古典派を訪ねて(第3回)」として、「漂う名門の雰囲気、品格」“アリソンの孫”城陽カントリー倶楽部」という記事を発表している。
少し長いが、その導入部を紹介する。城陽CCをプレーしたのは、その一ヶ月前2002年12月3日の経験だった。
「城陽CCのプレーを終わった後、一種の豊饒感を覚えた。
それは、日本のゴルフ場が、昭和30年代、まだゴルフ人口が100万人に達しない時代の中に遺き忘れてきた名門倶楽部の雰囲気だった。
中庭を囲んだクラブハウスは、36ホールに対応するためにかなりの広さと大きさなのだが、フロントからスタートまで、誰も走らない、声高に話す人もいない。食堂は静かだが人数は多い。その人たちの表情は皆、満ち足りていて穏やかである。」
城陽CCを“アリソンの孫”と言ったのは、ある程度批判覚悟だった。日本のゴルフ場で、アリソンの子といえば、その直々の設計による廣野ゴルフ倶楽部と川奈ホテル富士コースである。“孫”というなら、その二つのコースの子か、あるいは廣野GCの造成時に、アリソンの鞄を持ってその設計を学んだ上田治設計のコースのどちらかがふさわしいだろう。しかし城陽CCはそのどちらでもない。それでもなぜ“孫”なのか。
城陽CCは昭和33年9月東コース着工だが、それまでの京都には、本格的なコース、名門というにふさわしいゴルフ場がなかった。兵庫県下には、廣野GCを筆頭に鳴尾GC、神戸GC、西宮GCがあり、大阪には茨木CCがある。「京都にも是非、本格派・名門をー」という気運が強くなっていた。
昭和33年9月11日、経営母体の日本観光ゴルフ㈱設立。社長・寺田甚吉。宇治茶で有名な宇治町に隣接する久世郡城陽町寺田奥山の55万坪を買収。旧陸軍長池演習場に続く南面のゆるやかな傾斜地だった。「55万坪もあるなら36ホール造ろう」となった。
京都にも名門倶楽部を。手本は廣野ゴルフ倶楽部

城陽カントリー倶楽部 9番ホール
城陽CCの創生には、二人のキーマンがいた。初代社長、キャプテンの寺田甚吉とコース設計の佐藤儀一である。
寺田は、自らの土地を投じて、戦前から現在も続く大阪GC(淡輪コース)を創立した人。その後関西圏のゴルフ場設立の多くに貢献した功労者、コース設計も。後に南海電鉄社長となる。城陽CCでは、そのゴルフ場創建の経験を評価して経営トップに据えた。
寺田がめざしたのは、廣野GCだったようだ。コース設計の佐藤儀一は、日本アマに4勝(3連勝を含む)、日本オープンでもアマチュアながらプロの宮本留吉についで2位、“第二の赤星六郎”といわれた。寺田が買ったのは、廣野GCのクラブ選手権12回優勝という佐藤儀一のキャリアだった筈だ。彼ならアリソン設計のDNAを受け継いでいるに違いないと判断したのだ。因みに、寺田は、大阪GC淡輪コースでは、アリソンの子上田治を、そして城陽CCでアリソンの孫を起用したことになる。
その効果は、廣野GCの5番、10番のアリソンバンカーを彷彿させる彫の深いバンカーが、戦略的に配置され、城陽CCの一番の魅力となって現れている。
寺田は、クラブハウス設計にも、廣野GCと同じ渡辺節を選んでいる。建物も当初の計画では、廣野GCに似たスペイン風2階建だったが、「京都には日本風が似合う…」という寺田二世の意見で、和洋折衷の半2階式に変えたという話がある。玄関から食堂まで平屋建の感覚で、そこには平安時代の匂いさえ漂う日本的古風なアメニティが感じられ、それが京都によく似合っていた。
寺田は、36ホールが完成するまでの3年間、コース所在地で、(自分の姓と同じ)寺田地区の豆腐屋の2階に下宿して、ゴム長、作業衣仕度でコースづくりに熱中、17年間、キャプテン、社長を勤め、城陽CCのロゴ、エンブレムまで彼の図案であった。
格式を尊ぶ城陽CCらしい逸話も残る。昭和34年開場当時の城陽CCの食堂では、うどん、そばの汁物は出さなかった。白い服のボーイがスープを注ぎ、メインディッシュのメニューを出す正式ディナーだったという。英、米の名門倶楽部では、今でもつづく格式高いマナーである。
アプローチの名手 佐藤儀一のグリーン、グリーンバンカー設計

城陽カントリー倶楽部 18番ホール グリーン左の大きいバンカー
城陽CC東コースの設計には、特長がある。
コースは、初めから高麗の1グリーンだった。昭和30~40年は、井上誠一、上田治、富沢誠造など殆んど例外なく2グリーンに造っていた。1グリーンで生れた戦前コースでさえ、2グリーンにつくり変えられていた時代だ。その中で佐藤儀一のコースは、広い第1打からグリーンへ向ってターゲットをしぼり上げてゆく、贅肉のないフェアウェイが延びていて、その頂点に深いサンドバンカーを据えた小ぶりな砲台グリーンが待ち構えている、そんな設計美学だった。その見本が、松と広葉樹林を両側に伴走させながらグリーンへしぼり上げてゆく7番・パー5である。
グリーンの大きさは、平均して僅か400平方メートル、小さなサンドバンカーが支えているのだから、当然のこと高く揚げた砲台グリーンとなる。
その典型が、東コース18番ホールである。
18番(329ヤード・パー4)のグリーンは、平坦なフェアウェイの先に突兀として高く約4メートルせり上っている。第2打で捉りやすい右側の二つのバンカーは、深さ約2メートル。これでも浅いくらいだ。左側のバンカーはもっと深い。グリーン面まで4メートル、30度のスロープを描く長い砂渡りをもったトラップだ。入れてしまったら、1打脱出は無理だろう。しかし入れてみて、2度ぐらい打ってみるのも、佐藤儀一設計に対する“武士の礼法”というものだろうか。
但し佐藤儀一は、武骨一辺倒ではない。カリフォルニア大学美術科留学という教養が生み出すのか、背景の森、丘、ホール間をセパレートする疎林の美しさは、プレーを終った後一種の豊饒感を覚えさせるほどだ。
またグリーン造型、グリーンバンカーの位置と造型をめぐって他にない評価を感じるのは「アプローチの名手」と謳われたゲーム感覚の卓技さを反映したものであろう。
[追記] 城陽CC東コースは、平成15年高麗グリーン1グリーンをベント1グリーンに改造している。その際、“佐藤儀一設計の原図を変えないようにとの条件下で、平均150平方メートル拡張、580平方メートル~600平方メートルの広さとなった”そうである。
所在地 京都府城陽市寺田奥山1-46
コース (東) 18ホール・6808ヤード・パー72
(西) 18ホール・6352ヤード・パー71
コースレート (東)72.7、(西)69.8
設計者 佐藤儀一
開場日 昭和34年17月23日
参考スコア 平成17年関西オープン(54H)
優勝 山下和宏 207ストローク
12 月 1st, 2011 in
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フェアプレーの精神で設計されたコース

カレドニアン・ゴルフクラブ 大池から18番グリーンと汀のバンカー、クラブハウス。手前は、13番の汀のバンカー
「つまり、プレーヤーを必要以上に困らせたり、難度の高いショットを連続して要求していず、リーズナブル(理にか適った)で、フェアに思えました。
フェア・プレーの精神はプレーする側の問題だけでなく、コース設計の側にも必要不可欠なものと考えます」(平成3年3月、カレドニアン・ゴルフクラブ、『TAM ART QUAM MARTE』・ラテン語で、力と同様に技もの意)
この文章は、日本アマチュア選手権に3連覇を含む6勝の伝説的名手中部銀次郎氏が語ったカレドニアン・ゴルフクラブ印象記の一端である。
当時中部氏は、何回もカレドニアンをプレーしていたようで、食堂で、コースで、度々その姿を見かけたものだ。コース設計家でゴルフ著述家の金田武明氏もよく見かけた。言葉を換えれば、ゴルフ理解の深い“精読者”たちが多く訪れていたのは、カレドニアンのコースが、日本ゴルフ界に、多くの新しい提案をしていたからだろう。
各ホールが個性的な表情
カレドニアン・ゴルフの18ホールは、一つとして同じ顔をしたホールがない。いや、同じ形態のグリーンもない。たとえば…
2番ホール(555ヤード・パー5)のグリーンは、前後85ヤード(70メートル)のタテ長で、しかも4段のフラット(平面)からできている。ピンが4段目に立っている時、手前の1番目、2番目のフラットにオンしても、実質的にオングリーンとはいえないだろう。このホールのグリーン狙いは、2オンから3オン、150ヤード以上のショットとなる。アプローチというより第二のティショットと覚悟する必要がある。グリーン上では別のプレー、頭のゴルフが始まるのだ。落下したボールは、グリーン面の柔かさ、傾斜、芝目の方向、球の重さ、スピン量によってころがりが違う。それらを慎重に読みながら第二のティショットを放つのである。必要な戦略は、距離読みだけではない。
その上に2番ホールでは、70メートル先のタテ長グリーンのピンを狙うという精度の高い戦略が求められる。そして次は3番グリーンだ。
3番ホール(190ヤード・パー3)では、グリーンの形は、ガラリ大転回する。ここのグリーンは、軽い打下しとなる谷隘のスペースに、左から右へ奥行きの浅い横長グリーンが、大きなバンカーの先に横たわっている。グリーンの奥行は浅い。左から右へ横に長く、やや右傾斜である。筆者の経験では、右奥のピンを狙ってグリーンに落ちたボールが奥の斜面までバウンドした。
2番の長大なタテ長グリーンから、横に長大な3番グリーンへ、急転回についていけないプレーヤーの感覚のうろたえを狙った設計上の戦略だろうか。
ジョージアからスコットランドへ
カレドニアンには、同じ個性のホールは一ひとつもない。たとえば…。
「カレドニアン」とは、ゴルフの故郷スコットランドの古い名称である。ゴルフコースは、スコットランドの海岸線と耕作地を繋ぐ(リンクする)リンクスランドから生まれた。それもミュアフィールドからセントアンドリユスまでは平らだが、アバディーン以北になると海岸線の小砂丘群が延々と連なっていて、ゴルフ場も変化が大きく且つ多くなる。
カレドニアンの16番(343ヤード・パー4)は、そんな北部スコットランドの、例を挙れば、クルーデンベイGCなど小砂丘累々のリンクスを思い出させる設計である。フェアウェイもラフも、スルーザ・グリーンいっぱいに小砂丘、マウンド、うねりが折り重なっていて、球の落し所を探すのが大変。そういう構成のホールだ。グリーンは310ヤード先の左隅に小さい。前に小さなエプロン(花道)があるが狙うには遠い。筆者はいつもグリーンの右下の平地に2打で運び、3オンを狙う作戦だったが如何に?
荒ぶるリンクススタイルの16番に比べ、15番(498ヤード・パー5)は、一転して抒情的な雰囲気のホールだ。特に残る100ヤードの景色は、山武杉の屏風に囲まれたタテ長のグリーンを正面から右へ渓川がぐるり。その岸辺をアザリア(つつじ)の花が彩どる。日本的でさえある。と思っていたら、同伴プレー中の山本増二郎氏(元日本プロ協会会長)が、
「これはまるでオーガスターの13番パー5だ。後にバンカーにつくればそっくりだ」
と歓声を挙げ、コース設計もする山本氏は早速コースの素描を始めた。そんな経緯がある。
戦略的だが何よりも風景画のように美しい15番から山武杉の小さな峠を超えると、そこはがらりと変わり、全景がリンクスランドの16番ホールだ。この急転回を設計者は、設計のリズムという。各ホールが次々に個性的な顔をもって続くという意味だ。
早川治良社長は、「名物ホールは何番ですか、と聞かれるのが一番困ります。すべてが名物ホールだと思っています」と嬉しそうに語っている。
J・M・ポーレットとは誰か。
カレドニアGC誕生には、コース造りをめぐって夜を徹して議論する夜も珍しくなかったという二人のキーマンがいた。設計者のJ・マイケル・ポーレットと経営者の早川治良である。
J・M・ポーレットは、1943年米国ペンシルバニア州生れ。ウエスレイアン大学、アイオワ州立大で、自然科学、林学、地形学、都市計画、造園学と多角的な知識を収める。1970年陸軍士官としてタイのバンコク駐在中、現地にナバタニーGC建設中のトレント・ジョーンズ・ジュニアと知り合い、そのアジア事務所長となる。後に独立、ブラット・ベンツと組み、日本で最初に知られたのはベンツ&ポーレット社としてだった。その後マイケルポーレット・デザイン主宰。米国東海岸を中心に200コース以上、日本では、富里GC、カレドニアンGCの他、キングフィールズ、プレステージ、グレン・オークスなど14コースを設計している。(佐藤昌『世界のゴルフコース発達史』による)
ポーレットは語っている。「立派なコースとは、“母なる自然”によって創造され、人はただこれを“発見する”だけである」 コース設計の極意、美学である。
「これこそカレドニアンにあてはまる言葉です」とポーレットは語っている。
もう一人の先覚者早川治良は、カレドニアンGCに着手する前に皆川城CC、オークヒルズCCの開発に関係、20年の体験があった。そのキャリアを絶って東京グリーンを設立したのは、“世界の名コースの中に指折り数えられるコースをつくる”目的だった。
やはり、名物ホールは13、18番ホール

カレドニアン・ゴルフクラブ 13番ホール グリーンと汀のバンカー
早川社長の言葉はあるが、強いて挙げれば、名物ホールは13番ホールと18番ホール、クラブハウス前の大池を挟んで対峙する2ホールである。大池は、バンカーの白砂をそのまま池の底まで沈め、対岸まで延長してみせた新しい水際設計、新しい水面、汀のバンカーの登場として、日本ゴルフ界の注目を集めた。
さらにこの2ホールは、第1打を水面越えに斜めに放つ、ポーレットの設計理論「ゴルフは角度と距離のゲーム」の原理をズバリ具現化していて印象的、特に留意したい。
13番ホール(406ヤード・パー4)は、打下ろし、フェアウェイは右側に大池を抱きながら約200ヤードで直角に右折する。池の上を約250ヤード飛ばせば高く掲げたグリーンまでの残るは100ヤードだ。危険も収穫も大きい“勇者の道”だ。安全を辿るコースは、第1打を真っすぐ200ヤード弱、そこから右折、206ヤードという計算だが、高く奥行の浅いグリーンへ2オンは無理。3オン狙いとなる。右側には汀のバンカーが這う。さてどのルートを選ぶか。
18番(545ヤード・パー5)は、“角度と距離”の戦略的緊張を2度楽しめる。このホールは、グリーン際の大池の他に、もう一つティグランド前に約200ヤード越えの中池を抱えている。二つの池は小高い丘列に区切られていて、ティからグリーンは見えない。攻め方は二つ。距離の出る勇者の攻めは、第1打は中池の上を右斜めに飛越し、第2打でグリーンを狙う。安全ラインを攻める人は、第1打は、中池の左のフェアウェイを直進、そこから右折、第2打でグリーンの花道を正面に見る地点まで運び、3オン狙いだ。第3打は慎重に、スコットランドの先人たちが、セントアンドリュウス・オールドの17番ホールの第3打で重用したという“オールドコース・ランナップ・ショット”を試みたい場面である。
13番も18番も、グリーンの変化が大きい。「グリーンの形は、周囲の自然に習う」というポーレットの持論に従えば、恐らくポーレットの想像力の中では、この大池は大海に見立てられていたのであろう。オン・グリーン後始まるもう一つのゲームも並大抵ではない。
2000年(平成12年)日本プロ選手権競技 6910ヤード・パー71
会場 カレドニアンGC、18H・6910Y・P71
優勝 佐藤信人 68 71 69 72 -4 280
所在地 千葉県山武郡横芝光町長倉1658
コース規模 18ホール・7021ヤード・パー72
コースレート73.4
設計 J・マイケル・ポーレット
開場 平成2年10月7日
コースレコード (アマ) 木村 友栄 69
(プロ) 尾崎 將司 64
11 月 17th, 2011 in
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袖ヶ浦CCの誕生と背景

袖ヶ浦カンツリークラブ・袖ヶ浦コース 18番ホール第2打地点から… 中央杉の左がサブ・グリーン、右が大競技で使うメイングリーン(キャディの向う)
袖ヶ浦カンツリークラブの、生れた時の名前は、誉田カンツリー倶楽部である。現在では、コース所在地千葉市辺田町だが、昭和29年千葉市に吸収合併されるまでは、誉田村だった。
京葉海浜工業地帯4000万坪を中心に、昭和30年代前半の千葉市周辺は、朝鮮動乱以来の経済発展が続いていた。しかし宮内三郎市長には、「千葉市には、経済の規模に見合ったホテルひとつ、ゴルフ場一つない」と不満だった。そして昭和29年鷹之台CCの建設を担当して開場したばかりの増田正二(旭建設社長)に相談した。
「辺田町の市有地約10町歩を中心に、日本で一流のゴルフ場をつくれないか」
旧誉田村は、5つの療養所を持つ静かな村だったが、現金収入が少ない。増田はすぐ動いた。
昭和34年4月10日、(株)誉田カンツリー倶楽部(資本金250万円)を設立。社長安西正夫(昭和電工社長)、取締役増田正二。ところが6ヶ月後12月には、(株)袖ヶ浦カンツリー倶楽部と改称している。
古くは袖ヶ浦あるいは袖しか浦。千葉県行徳から千葉市臨海工業地帯に至る海岸線の古い地名である。『古事記』に、荒波から日本武尊を救うため走水(東京湾)に身を投げた妃弟橘媛の袖が、数カ月後海岸に流れ着いたという哀話がある。以来内房の海辺を袖ヶ浦というようになったようだ。
増田が、名称を誉田から袖ヶ浦に変えた真意は恐らく、歴史的な呼称を冠することで、これから造るゴルフ場を、小さな誉田村ではなく、より大きく格調高く国際的なコースにしようという狙いがあったと思われる。
増田の計画は、千葉市にもう一つの“鷹之台CC”を造ろうだったようだ。だから設計者も同じ和泉一介。和泉には、鷹之台CCを途中退場した井上誠一に代って完成させた実績があった。
袖ヶ浦コースには、2、8、16番に大きな吊場がある。その下には、谷地と水田が低く挟まれて、設計には悩ましい地形だったが、和泉は、それら自然の変化を「プレーヤーの冒険心を満たすものとする」と共に、「点在する森林や独立樹などとグリーン、バンカーの間にメロディ感を持たせた」と設計コンセプトを語っている。
昭和35、36年といえば、ゴルフ場新設のブームの頃。会員募集も花ざかりで、集めた入会金でコースを造るのが常識だったが、袖ヶ浦CCの増田社長(キャプテン)は、終始自己資金で開発を進め、銀行から借り入れることはあっても、開場日まで入会金に手をつけることはなかった、と50年史が記録している。当時も今も、珍しい例である。
勝負は14番ホールから始まる

袖ヶ浦カンツリークラブ・袖ヶ浦コース 16番ホール・パー5 左の高い杉3本がいわゆる御神木。フェアウェイはそこから直角に左ドッグレッグしている。
筆者が、袖ヶ浦CCをプレーしたのは、昭和41年、袖ヶ浦CCで行われた日本オープンで所属プロの“早打ちマック”こと佐藤精一が優勝した頃からである。当時の18番ホールには、グリーン前の池はまだなかった。グリーンは、前が低く後へせり上った構造で、左右の曲りが大きい。1ストローク差で18番グリーンに上った佐藤精一プロは、約10メートルの大きくフックするパットを決め、3アンダー285(70、69、73、73)で、初優勝を飾った。
現在の18番(569ヤード・パー5)は、向い風が多いこともあるが、グリーン前の池を避けて3オン狙いが主流。意表をつく(大ギャラリーが心中で期待する)2オン、イーグルの劇的シーンが少なくなっている。
このコースでの勝敗は、インコース、それも、ツアープロが、「最も難しいパー4」という14番(464ヤード)からの5ホールで、バーディを幾つとるかが鍵となる。
15番、16番ホールは、ともに第1打が左ドッグレッグ、大きなドローボールで左斜面のフェアウェイへころがすホールである。
16番(541ヤード・パー5)、ティグラウンドから見て左手遠く、3本の高い杉、いわゆる御神木のあるホールだ。第1打のボールは、御神木の先で殆んど90度に左ドッグレッグし、落ちると左傾斜のフェアウェイへころがる。この曲り角まで250ヤード。第1打は大きく左へ打って、高く御神木を越えるか、曲り角までストレート250ヤードで止めるか、250ヤード以上打ってフェアウェイなりに左ドッグレッグさせて低地の底近くまで飛すか。飛距離と技術の見せ所だ。成功すれば2オンが狙える。
昔は、勇者は御神木越えを狙ったから、ギャラリーも緊張したが、今は飛ぶゴルフの時代だ、ツアープロの50%は、3、4番アイアンで250ヤードのフックボールを打てる。御神木の威令もいささか後退、プロにはイーグル狙いのホールになったか?
17番(231ヤード・パー3) ティとグリーンが殆んど同レベル、ストレートな広い展開である。左より右に雑木の疎林が近いが、むしろ危険は左のトラップとラフにあるようだが。
18番(569ヤード・パー5) 第1打は左側バンカーに注意。但し右側ラフも広くはない。第2打は、池の左側フェアウェイへ、フラットライまでの飛びがほしい。グリーン上のピン狙いは敢えて「いつでも中央」を奨める。
袖ヶ浦カンツリークラブは、日本ゴルフ協会会長に、安西浩、安西孝之(現)の二人の会長を出している、2名以上は、東京ゴルフ倶楽部と2倶楽部だけの名誉である。
東京ゴルフ倶楽部に比肩する倶楽部史、クラブライフづくりが期待されているのであろう。
所在地 千葉県千葉市緑区辺田町567
コース規模 18ホール・7138ヤード・パー72
コースレート 73.7
設 計 者 和泉 一介
開場月日 昭和35年11月1日
コースレコード プロ 飯合 肇 63
アマ 倉本昌弘 68
10 月 27th, 2011 in
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廣野ゴルフ倶楽部に育てられ
「日本一のゴルフ場はどこか」と問われたら、少しでもゴルフ知識のある人なら、その90%が、廣野ゴルフ倶楽部と答えるだろう。小野ゴルフ倶楽部は、廣野GCのシスター(姉妹)コースである。
平成17年4月18日、筆者は廣野GCをプレー、翌19日小野GCで1ラウンドした。廣野から小野まで殆んど直線、車で50分である。
廣野の分家か姉妹コースか

小野ゴルフ倶楽部 17番ホール 谷(池)越えのパー3
昭和34年頃、兵庫県のほぼ中央部に位置する小野市は、ソロバンの生産量日本一ともう一つ5000羽の鴨が飛来する13万坪の鴨池だけが自慢の、特徴の少ない過疎都市だった。
その頃になるとゴルフ先進県兵庫県では、ゴルフ場を誘致しての地域振興が流行し始めていた。小野市長は、鴨池を中心にゴルフ場を誘致して、過疎地からの振興を図ろうと計画、兵庫県庁に相談を持ち込んだ。兵庫県は、その話を、廣野GCの乾豊彦理事長に打診した。戦時中川崎重工明石飛行場の代替滑走路、同社農場として接収されていた廣野GCのコースを、昭和24年までに、見事アリソン設計の原形に復活してみせた若き廣野GC理事長乾豊彦の手腕に期待したのである。
乾は、申し出を再三辞退したようだが、一旦引き受けると、まるで廣野GCの姉妹コース、いや第2コースを建設するかのように、資金、労務面でも全面支援して、昭和36年1月、鴨池をめぐる25万坪に着工した。設計は上田治。上田は、京大在学中から、建設中の廣野GCでアリソン、伊藤長蔵に従って現場で働き、アリソンの技術を熟知。戦中、戦後を廣野GC支配人として働き、戦後は乾の下で廣野GC再建に貢献していた。昭和29年に退職、設計家として独立して“東の井上誠一、西の上田治”と並称される人気があった。生粋の廣野GC育ちである。
着工して1年も経たず、昭和36年11月3日18ホール・6880ヤード・パー72が完成する。
乾豊彦の、小野GCに対する扱いは、姉妹コースというより親と子に近い。建設に資金、人手を廻したばかりか、完成すると乾自身が長い間理事長を廣野GCと兼任、支配人も初代、2代と廣野GC出身者が続いている。因みに現在の廣野GC支配人黒本洋一氏は、前任は小野GC支配人だった。
会員にも、廣野GCと二つ重なっている人が多い。創業時の初回募集で、一般からの入会25万円に対して廣野GC会員は20万円とサービスした伝統があるからだ。
結論すれば、姉妹コースというより分家に近い。
上田治設計の秀作

小野ゴルフ倶楽部 9番ホール ホップステップジャンプの愛称がある。右は鴨池。
コース展開は、アウト9ホールが鴨池をめぐり、イン9ホールはややヒーリーながらもフェアウェイの両側を背の高い林立に守られた林間調。アウトは繊細な戦略性、インは飛距離を求められるホールが中心となる。
アウトでは、鴨池を越える7、8、9番ホールが鍵となる。特に9番(540ヤード・パー5)は、ホップ・ステップ・ジャンプのニックネームがあるように、クラブハウスへ向って打つ第3打池越えの成功、失敗がスコアを左右する。即ち、1打池越え、2打が計算通り打てないと、4打目、5打目の池越え、あるいは200ヤード近い池越え第3打となるから、このホールは、心して正確にプレーしたい。
インコースでは、10番(375ヤード・パー4)の第1打落下点の近くに、フェアウェイにせり出した大きなクロスバンカーがある。廣野GCの2番ホール第1打の塹壕型クロスバンカーを連想したりしたが、小野GCをよく識る黒本廣野GC支配人によると、「皆様よく飛ぶようになって、殆んどの人が悠々と飛び越えます」ということだった。しかし設計美学上はやっぱり、あの位置に欲しいトラップだ。
インコースでは、13番(470ヤード・パー4)が、森に包まれたロンゲスト・ミドルで、ホールハンディNo1である。正確に大きく飛ばそう、フェアウェイは広い。
廣野GCは名作である。「名作とは力を揮うのではなく、力を抑えた作品である」(仏国の文明批評家サント・ブーヴ)との言葉がある。廣野GCのコースは厳しい、それでいてやり過ぎがない。名作である。対して小野GCには、約20ヤードを打上げる15番(375ヤード・パー4)、約20メートルを打下してゆく第1打の16番(530ヤード・パー5)の型破りな展開、そして米国のパインバレーやメリオンのラフリバーを模倣した景色など、廣野GCにはない自在な楽しみ方、次男坊らしいやり過ぎもあって、それが小野GCの長所の一つであろう。
小野GCのクラブハウスはまるで「町家」である。露路の階段を2、3段上ると入口である。クラブハウスに贅沢は要らぬ、という乾初代理事長の意見で生れた質素な佇いの建物である。クラブハウスからアウト・インのスタートまでの距離が全く同じ、乾理事長と設計者上田治が、実際に歩いて測ったといわれている。
それはさておき[閑話休題]
本家筋の廣野GC側の希望は、「廣野GCは名コースだが、平均的メンバーには難しすぎる。小野GCは、良いスコアで楽しく廻れるコースにしよう」という狙いだったらしい。設計の上田治も、ブルドーザを入れて平坦なコースを造る計画で始めたが、乾理事長が原地形にゾッコン、自然を生かそうと主張、しだいに難ホールが増えて、「ひとつ狂えばすぐ50」のコースになってしまった、と『二十年史の歩み』(座談会)に泣き言が出ていて、乾氏が謝っている。
昭和44年 日本オープン開催 優勝 杉本英世 284、 2位 内田繁 285
ベストアマ 入江勉 293 (総合16位)
所在地 兵庫県小野市来住町1225
コース規模 18ホール・6925ヤード・パー72
コースレート 73.9
設 計 者 上田 治
開場月日 昭和36年11月3日
コースレコード プロ 杉本英世 67 (昭和44年日本オープン優勝の時)
アマ 美永正則 67
10 月 19th, 2011 in
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「ホームコースにしたいクラブ」

青梅ゴルフ倶楽部 東コース1番ホールとクラブハウス
10年前になるだろうか。「もし私がホームコースを選ぶとすれば、青梅ゴルフ倶楽部がいい」と言った人がいた。その人は、ゴルフ会員権取引業会社の社長である。
推奨の理由は、青梅は、随一、クラブ民主主義が徹底したクラブだから、だという。
今回は、その倶楽部、そのコースのことを書く。
昭和30年前後――。
国鉄青梅線青梅駅の二つ手前河辺駅の近くに、満州からの引き揚げ者の収容所があった。後に青梅Gの取締役となる広瀬五郎もそこに住む一人だった。ある日広瀬は、養兎場を設けるための土地探しに出て、青梅市霞丘陵(ゴルフ場現在地の一帯)の広大な山林が、殆んど不毛で安価で手に入ることに着目、ゴルフ場計画を思い立った。直に在満時代の知己で大阪に住む歯科医殿岡栄と相談する。計画は大阪で進められた。
“関東の廣野GC”をめざしたか
昭和32年6月、青梅ゴルフ倶楽部発起人会発足。青梅市議会が「設置に協力」を決定。同年7月(株)青梅ゴルフ倶楽部設立。社長殿岡栄、代表取締役・理事長に参議院議員現職の平島敏夫。平島は、広瀬、殿岡の満州人脈で、元満州鉄道副総裁。大東文化大学理事長の傍ら青梅GCの後飯能GC創建に動いている。
コース設計の清木一男も満州人脈である。元満州電元社専務、飯野海運ロンドン支店長時代にゴルフに習熟、帰国後戦前の鷹之台ゴルフ倶楽部(現鷹之台CCの場所)を設計している。発起人92名のうち佐藤享、松平勇雄は相模CCメンバーで、やはり満州人脈、うち佐藤は、青梅GCについで府中CC、白河高原CCを造り上げている。一流の人脈を集めたのである。
満州人脈と平島敏夫人脈の効果は大、第1次300名募集には600名が入会、1億円近くを集めたと、50年史が書いている。
以上からも、発足時から目標は一流、名門だったと判る。さらに名門倶楽部から優秀な現役スタッフをスカウトしている。設計の清木を通じて鷹之台CCからプロの花島洋、グリーンキーパーの丸山清治、小金井CCからは川奈育ちの女性キャディマスター広瀬弥栄子(旧姓石井)。最も話題となったのは、関西第一の名門廣野GCから名物支配人片田真造、料理長出口四郎をスカウトしたことだった。東京のゴルフ界では、
「青梅は、関東の廣野GCを作るつもりか」
と話題を呼んだ。計画が関西在宅の殿岡中心に進んだ結果だろうか。施工も、浅沼組、古市建設と関西の業者が受けている。
佐藤敏雄社長、経営危機を救う

青梅ゴルフ倶楽部 東コース2番ホール・パー5
昭和33年11月、第1コース アウト9ホールを仮開場。昭和34年5月第1コース イン9ホール開場、第1コースは18ホールとなる。
昭和34年4月第2コース着工。8月第2コース9ホール開場。11月残り9ホールに着手するが、資金難のため工事進行20%で中止。
経営陣は、5万円で倶楽部債を発行するが、予定の11%しか集らず、この時点で、さらにずさんな建設計画、不正経理が露見し、経営危機に陥る。
昭和35年1月、殿岡、広瀬ら4名の旧経営陣の役員が辞意表明。関東ゴルフ界を騒がせた“青梅事件”が発生した。
昭和35年6月の臨時株主(会員)総会で代表取締役に遠山浩三、佐藤敏雄が選出されて、事態は終熄に向かう。
特に地元東青梅駅前に、本社、工場を構える日本ケミカルコンデンサー(株)社長佐藤敏雄の苦労、貢献は大きかった。
日本ケミコンは、佐藤が、一電器商から自力で築き上げた東証一部上場の電流絶縁体メーカーである。昭和36年クラブハウスの競売申立を受けたとき佐藤社長は、私財を提供して難を逃れている。在任中の佐藤は、自社の仕事は午前中だけ、午後からは車で5分のコースへ。ラフや法面で草取り、石ひろいで従業員かと見間違える仕事っぷりだった。因みに佐藤社長は、全人教育で有名な玉川大学創始者小原国芳の後継者としても知られており、現社長佐藤敏明は、敏雄社長の子息、玉川大学卒業である。
昭和42年から52年まで経営過渡期に理事長の任にあった矢可部軍司の貢献も大きい。旧海軍少将、最後の連合艦隊軍医長から復員、50歳を超えて下北沢で医院開業、日曜休診を利用したサンデーゴルフで、名門小金井CCのハンディ8、シニアチャンピオンとなり青梅Gへ。理事長になっても、7本バッグをひょいと肩にセルフプレー姿が、会員たちの意識改革を促した。
ゴルフを難解にせず、楽しくするコース
青梅ゴルフ倶楽部は、平成20年11月16日に開場50周年を迎えた。昭和33年11月16日、第1コース アウト9ホール(現東コース)を仮開場して以来、満50周年である。
現在は、東コース3389ヤード、パー36 西コース3400ヤード、パー36 中コース3254ヤード、パー36。原設計者清木一男は、27ホールを設計していたが、そのうち北コースは、第1コースのインコースと混合しながらの大改造がつづけられ、現西、中コースとなり、旧設計のルーティング、詳細設計とも、全く面目を改めたコースとなっている。
現東コース(旧第1コース・アウト)も、いくつか大改造があった。日本一ホールインワンの出るホールといわれた2番、パー3は消滅して、8番の視野広大な打下しパー3が代って登場。3番、5番パー5のブラインドホールを高低差修正などが行われた。東9番338ヤードの第1打が、打下しから、フラットな左ドッグレッグにするなど、プレーしやすさと同時に戦略的な修正が図られるなど改造が進められた。因みにこの改造の重要部分には、佐藤敏雄社長と親しかった藤田欣哉氏の意見がはたらいている。藤田氏は、昭和4年霞ヶ関CC東コース造成のとき、設計の中心となった人。昭和30年代は、青梅の在に隠棲中だった。
青梅GCは、チャンピオンシップを争うコースではない。しかし打下し第1打の多い豪快さ、谷越えの緊張感、山コースにしてはブラインドのない開放感など、自然と向き合うゴルフの楽しさがある。2ベントグリーンの27ホール。ゴルフを難解にするコースではなく、ゴルフをさらに楽しくするコースである。
倶楽部民主主義とは…
青梅ゴルフ倶楽部は、システムは1株主1会員の原則に立つ株主会員制だが、運営は戦前からの名門倶楽部がもつ社団法人制と同じだと、50年史で宣言している。創業時の幾多の困難を乗り越えて、現在は「倶楽部民主主義の最も徹底した倶楽部」という評価がある。「ホームコースを選ぶなら青梅G…」という、冒頭の人の想いも、そこにあるようだ。
所在地 東京都青梅市根ヶ布1‐490
コース規模 東・9H・3389Y・P36。西・9H・3400Y・P36。中・9H・3254Y・P36。
コースレート 東・西 71.2
設 計 清木 一男
開場月日 昭和33年11月16日
コースレコード 東・西 嶋田憲人 68。 中・東 内山健司 64。
西・中 嶋田憲人 65。
10 月 3rd, 2011 in
名コースめぐり |
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発祥は東京銀座だった
『丘を越えて行こうよ
真澄の空は、朗らかに晴れて・・・』
戦後間もない昭和20年代半ば、大流行した歌謡曲、藤山一郎の『丘を越えて』の冒頭である。
歌詩の中の“丘”は、今では小田急線向ヶ丘遊園付近多摩丘陵の裾の辺りを指しているが、元々は、もっと広い地域を指していた。多摩川沿い、日野から府中へかけての東京側の岸辺から川越に南・西方を遠望すると、多摩丘陵の長い稜線が右から左へ(西から東へ)連なって見えた。昔はその全体の眺めを“向が丘”といったもののようだ。
昭和30年代に入ると、日本国中にゴルフ場新設ブームが起った。発火点は、東京、流行の火は、直ぐに東京の西郊、多摩向ヶ丘に点火した。
昭和34年府中CC、35年桜ヶ丘CC、36年よみうりG、東京国際CC、37年多摩CC、38年相武CC、39年東京よみうりCCなど、続々と新コースが生れる、そのフロントランナーとなったのが府中CCだった。
名門相模CCの影響を受けているといわれ、社団法人クラブに近い礼節を大切にする雰囲気のクラブだった。50年前の筆者の経験でいえば、食堂でのプロの取材は禁止、従業員控室か練習場に限られていたりした。
“こころは社団法人だった”

府中カントリークラブ クラブハウス
府中カントリークラブ。経営も倶楽部も、発祥は銀座である。
昭和28年当時、銀座3丁目、大通りから3本目、後1本で昭和通りという箇所に、銀座館というビルがあり、屋上ではゴルフ練習場とベビーゴルフコースを備えた銀座ミニチュアゴルフ㈱が営業していた。社長は、かの有名なゴルファー赤星四郎。ゴルフの名手必ずしも経営上手ではない。経営不振に傾いている時、札幌グランドホテル社長で相模CC会員の友人岩田彦二郎に助けられた。因みに岩田は、『自由学校』『てんやわんや』などで、戦後人気作家のトップ獅子文六(岩田豊雄)の弟である。(岩田豊雄は後に2代目理事長となる)
岩田は、赤星の銀座ミニチュアゴルフを買収すると、銀座館屋上に900平方メートルのクラブハウスを新築(西郷佐設計)、4レーンのボーリング場、レストラン、集会場、4階にはタウンクラブを開設、会員1000名の東京スポーツマンクラブを組織した。(因みに、当時銀座館には、日本プロ協会事務所も入居していた)
府中CCは、この組織を母胎に生れたと考えられる。昭和33年3月、岩田は東京都南多摩郡多摩村、由木村に広がる27万坪の低丘陵地にゴルフ場建設を計画、10月には㈱府中カントリークラブを設立、会長は岩田彦二郎自身、社長には相模CCの盟友佐藤享が就任する。
昭和33年12月コースに着工。設計は、岩田が戦前の名コース武蔵野GC(千葉県)以来の知人富沢誠造に依頼した。富沢は武蔵野GC(六実、藤ヶ谷の2コース)で、現場監督、グリーンキーパーとして働き、戦後の昭和26年には、川崎国際CC(現・生田緑地G場)建設で、井上誠一の許で設計助手、その手法を学んだ。昭和32年の千葉CC川間コースで設計者として独立、以来手がけたコースは100を超え、昭和30~40年代には日本ゴルフ界に“富沢時代”を築いた。
昭和34年4月クラブハウスの起工式。設計は銀座館屋上のクラブハウスを設計した西郷佐(後に袖ヶ浦CC旧ハウスなども)。
すべて順調。着工から11ヶ月、昭和34年11月3日、18ホール・6840ヤード・パー72をオープンした。会員募集は、第1次30万円を300名、僅か10日で満員。倶楽部組織は、㈱府中CCの株主が正会員となる株主会員制だが、心は相模CCと同じ社団法人だった。
富沢誠造に珍しい丘陵の傑作

府中カントリークラブ 13番ホールから多摩センターを望む
富沢誠造の設計は、井上誠一の影響を受けて正統派である。特に、グリーン造りの名手といわれた。但しそれは、オーガスタナショナルのグリーンが攻めるに難しいという意味とは違い、芝発育のいい管理しやすいグリーンを造るという意味だ。
富沢設計は、林間コースという形容名詞を最初に使った船橋CC、隣接の総武CCなど、平坦なコースの代表作が多い。
彼は、経験上、素材としての自然を温和して受け容れる。ティとグリーンの間にデザイン上の技巧が少ない。府中CCでも同じだ。土木機械が未発達だったということもあろう。
そこに丘があればその上から打ち下し、2打、3打と丘の裾を辿って、先に見上げるような山腹や丘があればそこにグリーンを置く。それが富沢流、2番(パー3)や15番(パー5)がそうだ。ピンフラッグは見えるがグリーン面は見えない或いは見えづらい。それが府中CCの新しさ。戦略的なおもしろさになっていたりした。
その中から印象に残るホールを挙げるとー
①白マークから打っても400ヤード以上のタフなパー4が、5番、8、16、18番ホールと多い。昭和30、40年代には、十分に難ホールだったといえよう。
②左右を気にしながらフェアウエイに打つ3番(410ヤード)、4番(400ヤード)、5番(435ヤード)のツーショッターは十二分にタフだ。
③パー3では、打ち下し気味ながら砲台グリーンへ打つ7番(210ヤード)、17番(180ヤード)と、先に挙げた見えないグリーンへピンフラッグを頼りの2番(140ヤード)が、スコアメイクのキーホールだ。
この他、2グリーンを一体化してベントの1グリーンとしたために、同じグリーンでも右と左、ピン位置によっては攻め方が変化するなど、18ホールそれぞれに多彩、戦略的変化があって、経験の長いプレーヤーほど、楽しみの多いコースである。
50年の歴史に二人の若者の秘話
府中CCは、ジャンボ尾崎の初顔見せ舞台である。昭和46年の第1回JALオープンで、オーストラリアのデビット・グラハムと同点、3ホール・サドンデスのプレーオフとなった。その2回目の18番ホール、ピン足元を狙ったジャンボの強気の第2打が惜しくもオーバー、対するベテランのグラハムは、グリーン中央を狙ってパーセーブ。ジャンボ惜敗。しかし若武者らしい戦いぶりに魅せられたジャンボ人気は、この時から爆発した。
もう一人ここで忘れられない花舞台を踏んだ若武者がいる。安田春雄プロ、この時20歳。18歳でプロ合格した安田は、その後数回2位を続け、期待は今日の石川遼のようだった。遼は18歳で優勝、人気爆発したが、安田は万年2位、「もうダメか…」の声さえ出始めた昭和44年関東プロ、これもプレーオフの3番ホールで勝利を射止めた。報道カメラがグリーン上の安田に駈け寄ろうとしたとき、安田は、今戦ってきたフェアウエイの方へ走り出した。空を見上げながら走っていた。泣いていたのだ。そこから杉本英世、河野高明、安田春雄の和製ビック3時代が始まった。
危機もあった。
昭和40年12月、八王子市中心の912万坪に、11万戸の多摩ニュータウン計画が発表される。その中に含まれる多摩CC、府中CC、東京国際CCは、当初緑地確保の見地から、買収対象外だったが、43年8月美濃部知事が突然、「農家だけにはしない。3ゴルフ場も買収対象」と宣言。東京国際CCは、27ホールのうち9ホールを買収された。府中CCも5万坪の練習場に転進せよと通告された。危機一髪だったが、昭和47年田中内閣の列島改造論が登場、九死に一生を得たという秘史もある。
所在地 東京都多摩市中沢1‐41‐1
コース規模 18ホール・6675ヤード・パー72
コースレート72.4
設計者 富沢誠造
コースレコード アマ 原田武史 67
プロ 田中文雄 63
9 月 20th, 2011 in
名コースめぐり |
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