第30回 ボナリ高原ゴルフクラブ

日本一、秋になったらボナリ高原

会津連峰の自然そのものを大借景にした ボナリ高原GC 8番グリーン

会津連峰の自然そのものを大借景にした ボナリ高原GC 8番グリーン

 秋である。
 秋になったら、ボナリ高原ゴルフクラブのコースを忘れないようにしよう。そこが、日本で一番美しい、秋景色のゴルフコースだからだ。1番ティに立つと、左正面に、設計したロナルド・W・フリームが、「私はこのコースを磐梯山のためにつくった」と誇らし気に指さして見せた磐梯山の山姿が高い。背後を振り向くと、クラブハウスの上空高く、噴火で山頂を噴き飛ばした火口跡をそのままに留めた安達太良の異形の山頂も残る。その二つの山頂を結ぶ会津連峰の山なみの輪が、会津盆地というカルデラ湖跡を囲って、ボナリ高原GCの大借景をつくっているのだ。そして秋には、それらが競い合い絢爛たる紅葉讃歌となって見事である。

崖越えパー5  ボナリ高原GC 3番グリーン

崖越えパー5  ボナリ高原GC 3番グリーン

 魅力の中心は、恫喝的なまでに戦略化された3番(530ヤード・パー5)である。深さ50~60ヤードの大きな崖を右側に抱えて、第1打はフェアウェイをストレートに250ヤード打つ、そこから第2打は右へドッグレッグし且つグリーンへゆるやかに下り斜面、170ヤード附近からフェアウェイ左部分はアラベスク風に並べたバンカー群、狭くなったフェアウェイの右側は、第1打で敬遠した例の深い崖だ。フェアウェイ伝いの2オンはバンカーにからまれて無理、横に細長いグリーンを左横から狙うことになるから3オンもどうか。秘策はある。コースのオープニングの日、設計者のフリーム氏が、筆者に、「ドライバーで250ヤードの断崖越えを成功すれば、後は8番アイアンで磐梯山を狙って2オンですよ」と明かしてくれた。但し250ヤードの崖越えは、並みの長打力と決断力ではムリか。耳よりな体験談を一つ。ゴルフ上手で有名なA弁護士が、ティからドライバーでストレートに打ったら、250ヤードのフェアウェイを突き抜けたとか。それなら崖越え2オンも恐れナシか。(山の上ですから、追い風、向い風の計算も慎重に、という影からの忠告もあった)
 3番ホールは、攻めて緊張するおもしろさだけではない。各ショット毎に素晴しい景色、シャッターチャンスが生れるから、インターバルを楽しむ余裕も必要である。
 スコアをまとめにくいのは、650ヤード・パー5の13番ホールだ。距離が長いだけでなく、フェアウィエも狭く、グリーン前に深いハロー(窪地)があり、そこからあるいは、そこを越えて高く掲げられた小さなグリーンに乗せるのは、かなりの難儀である。14番(410ヤード・パー4)は、ティグラウンドの前の180ヤードに、やや打下ろし気味の谷越え、バンカー列越えにフェアウェイが横たわっている。その左り端がグリーンだ。左へ狙うほど飛ばし屋ということになるから掛け値なしの自分のドラコンを試してみるとよい。

人気を集めるホールを紹介

遠く安達太良の独特の山姿が美しい ボナリ高原GC 7番グリーン

遠く安達太良の独特の山姿が美しい ボナリ高原GC 7番グリーン

 「ゴルフコースの設計とは、そこに棲む神々との邂逅である」と言った米国の設計家がいるそうだが、もしかしたらそれはボナリ高原をデザインしたロナルド・W・フリームではなかったか。と思いたくなるほど、フリーム氏のボナリ理解は深い。
 その代表例が、3番パー5の断崖越えだが、他にも、フリームの深いボナリ理解、自然解釈から生れた人気ホールが少なくない。
 たとえば5番(220ヤード) 11番(200ヤード)の二つのパー3は、林立する五葉杉の背後高く、遠く、中央に浮く磐梯山めがけて打つと、ボールはグリーン中央にポタリと落ちる設計になっているというかくし話がある。15番(210ヤード)は、距離も長くグリーンは約20ヤードを打ち上げるように高く掲げたパー3だが、グリーン前庭は、尾瀬の水芭蕉群をイメージした美しい水景が印象的で人気が高い。
 筆者は、4ホールのパー3のうち2番(295ヤード)ホールの10月下旬の景色を、絶対的に気に入っている。3番ホールのエキサイティングなデザインも秀逸だが、約200ヤード先硫黄川の断崖に纒りつく花木類の紅葉を、そのまま絵屏風の衝立のように利用してみせた2番グリーンの配置の見事さを気に入っている。ティから僅かに打ち下し気味に見るグリーンは、不必要と思えるぐらいロープロフィールで、それは地上に這わされているようでもあり、後方200ヤードの天然の花屏風をより大きく見せるための演出のようにも思えて、気に入っているのだが、どうだろうか。
 16番(550ヤード・パー5)のグリーンが、崖越え3番ホールのグリーンと、共用グリーンになっていることを知る人は多くはない。17番、18番は短か目のパー4だが、グリーン狙いの第2打には、外観に2倍する難しさがあるから、慎重に、最後のストローク・セーブにトライしたい。

「地球環境の世紀」のゴルフ場
 硫黄鉱山跡に人気コース

 21世紀は地球環境の世紀といわれている。その意味でも、ボナリ高原は、21世紀を先駆けるゴルフコースである。
 コース用地約40万坪は、昭和45年閉山するまで、年間産出高1万7000トンの日本硫黄㈱沼尻鉱山だった。硫黄の採掘権、湯脈権、湯の華をめぐる争いは、元禄以前から会津領、二本松領の間で争われていた。しかし石油から精製される硫黄の登場に押されて閉山。後には朽ち果てた施設と鉱滓捨場だけが残った。断崖ホールの3番附近には、鉱員社宅と精錬所、18番グリーン附近は、長屋社宅の集り、16番グリーン附近は、鉱滓捨場と旧窯製錬所だった。
 昭和62年、ゴルフ場の事業主体磐梯ナショナルパークリゾート株式会社(辻田昌徳社長・大村湾CC経営)が買収、平成3年にコース工事に着手。コース全域に、米国技術により土壌改良された土を、1メートル客土するという大工事から始められ、フェアウェイ、ティ、グリーンはベントグラス、セミラフはブルーグラス、ヘビーラフはフェスキュと、米国仕様の工事が進められた。
 平成17年、ボナリ高原GCは、“環境世紀にふさわしいゴルフ場”として林野庁長官賞表彰(環境庁が出来る前)を受けている。
 設計のR・W・フリームは、米国設計界の第一人者トレント・ジョーンズ・シニアの事務所出身。日本では大村湾CCニューコース、ハッピバレー、パームヒルズなどを設計。
 クラブハウスは、ロッカー棟、事務所棟、レストラン棟を分立させた米国西部の大牧場の牧舎を思わせる建物で印象的。設計は、ペブルビーチの建築家ウィル・ショウである。
(現在の経営は、非鉄金属リサイクルの川嶋グループ・社長 川嶋義勝。傘下ゴルフ場には、ザ・フォレストCC 27ホールがある)

所在地  福島県耶麻郡猪苗代町沼尻2855
TEL  0242-67-1234
開場  平成12年6月20日
コース  18ホール・7010ヤード・パー72
設計  R・W・フリーム

第29回 札幌ゴルフ倶楽部 輪厚コース

歴史は遠く、銭函との合作

札幌GC 輪厚コース:クラブハウスから1番ティへ。

札幌GC 輪厚コース:クラブハウスから1番ティへ。

 札幌ゴルフ倶楽部の発祥は、少しばかり複雑である。
 昭和33年6月12日とあるのは、札幌ゴルフ倶楽部の輪厚コースの開場日である。それより遡ること26年、戦前の昭和7年8月、札幌郡豊平町大字月寒村字二里塚の17万坪に、18ホールの建設を発表したのが“札幌ゴルフ倶楽部”の始まりである。コースは、当時のゴルフ界の権威大谷光明設計による18ホール・6216ヤード・パー72。翌8年アウトコース、9年にインコースが完成、18ホールが揃っている。北海道における18ホールコース第1号である。
 北海道のゴルフコース第1号は、函館(昭和2年)か小樽(昭和3年)か、長年もめていたが、いずれも9ホールである。その後イタンキ(室蘭・昭和5年)旭川、洞爺湖(昭和6年)と続くが、これらも9ホールである。道都札幌が後れをとっているのは不思議だが、札幌には、東京から赴任した官史、会社員が多い。彼らは、東京の駒沢、程ヶ谷、藤沢などの18ホールコースに馴れていて、北海道の競馬場や海岸の9ホールを本物のゴルフコースと認めていなかったのではないか、という説もある。それを裏付けるように、札幌ゴルフ倶楽部月寒コースの人気は絶大で、完成を待ち切れないゴルファーたちが、インコース予定の牧草地に、自前で簡単な仮コースを作ってプレーした、というエピソードが残っている。
 (小樽CC銭函コースは、電車で札幌から30分、小樽との中間点であった。月寒コース会員は、月寒のアウトが完成するまでの5年間を、小樽CC会員と合同、銭函カントリー倶楽部としてプレーしたという事実がある。この間、小樽CCも看板を一時期取り下げ銭函CCとしたのだ。この5年を加えれば、札幌GCの歴史は、さらに古くなる。因みに、昭和15年会員名簿には、戦後復興の中心となる道家斉次、越山友之、村上義一の名前もある。)
 人気絶大の札幌GC月寒コースだったが、戦争には勝てず、昭和17年11月閉鎖され、陸軍の演習場、かぼちゃ、大根畑に変身して敗戦、再起できなかった。

真駒内から輪厚へ

 戦後、札幌市内真駒内地区に広大な駐留軍基地がつくられ、昭和22年その中心に、米軍のための18ホールのゴルフ場が誕生。27年朝鮮動乱終熄後、日本人のプレーもOKとなり、昭和33年にはその管理のために会員制札幌カントリー倶楽部が組織された。(会員数800名、理事長道家斉次)。
 だが僅か一年で北海道庁に接収され、真駒内ゴルフ場は、道営ゴルフ場、ついで真駒内団地の公園となった。行き場を失った札幌カントリー倶楽部は、一切の歴史を継承する約束で、折から札幌の表玄関千歳空港と札幌駅を結ぶ弾丸道路(国道36号線)沿いのゆるやかな丘陵地広島村輪厚にホームコースを築きつつあった札幌ゴルフ倶楽部に合流した。
 戦前、戦後を通してのこうした倶楽部史の足跡を、『輪厚30周年記念号』は、「銭函がゆりかごなら、月寒は幼年期、真駒内が少年の目覚めを覚え、輪厚でキリリとした青年に成長したといえまいか」と書く。現時点でいえば輪厚コースの年齢は52年だが、札幌ゴルフ倶楽部は78年といいたいようである。
 因みに、輪厚(ワッツ)とは、アイヌ語のウッチナイから転訛したもので、“肋骨のような川”の意。現在のコース内に、それを思わせる川の姿はないが、輪厚川川上の脇、脇川とは泥川の意もある。

輪厚コースと井上誠一の設計哲学

札幌GC 輪厚コース:17番ホール、第2打からグリーン方向へ。

札幌GC 輪厚コース:17番ホール、第2打からグリーン方向へ。

 昭和33年8月10日、輪厚コース(初めは札幌コース、37年2月輪厚コースに改称)18ホール・7100ヤード・パー72が開場。
 設計の井上誠一は、「地形も仲々変化に富んだゴルフコース適地であり、」「立派な西洋芝のグリーン、フェアウエーを育成管理して行く前提のもとに近代的チャンピオンシップコースを作るべきであるとの基本方針でレイアウトの研究を進めた」と力をこめている。
 具体的には、井上は「できるだけ自然の地形、風物を利用して戦略的様式のものを作るべく意図した」としながらも、極端に難しいコースは避け、比較的楽に1オーバー・パーをセーブできる程度に計ってレイアウトしたとしている。
 もう一つ井上が、凡ゆる種類のショットをマスターできるような変化を多くつくった。たとえばバンカーは浅く、深く、砂渡りの長いもの、短いのもと、このコースで学べば、他のどこのコースに行っても、球のこなし方で恐れることはない、と嬉しい助言もしている。上級者を志す人は、十度は試みて輪厚を卆業したいものである。
 井上が気にしているのは、1番、10番がそうであるように、第1打打下し、第2打でグリーンへ打ち上げのホールが多い点だ。地形上の制約だが、そこでも打上げのボール・ライ、スタンスは各ショット毎に違うように設計されているというから油断しないことだ。
 セント・アンドリュウス・オールドコースでは、17番ホールが終わるまでは何も決らないといわれているが、輪厚コースでも、17番ホールでバーディかボギーか、勝敗はこのホールで決る場合が多い。問題は、第2打(あるいは第3打)の左曲り角にある背丈の高い木々の集まりである。どう越えるか。設計の井上は、ただ一言、「17番の曲り角の大木の群れは伐らずに残すよう」に指示しただけだったとか。大洗GC、日光CCでそうだったように、設計者は、成長し変化する樹々のつくる戦略的微妙を前に、プレーヤーがそれぞれにどういう攻めの筋書きを書いてみせるか、それにこだわったのである。輪厚でプレーしたら、お土産話しの中に、17番ホールを忘れてはいけない。

輪厚コースE・T・C
昭和48年4月20日 輪厚コースの新しいクラブハウ落成
昭和48年7月15日 STVカップ札幌オープンが発展的解消、第1回全日空札幌オープンゴルフトーナメント開催(15・16回は、輪厚コースのグリーン改造のため由仁コースで開催)。
昭和50年4月25日 由仁コース18ホール正式オープン。

(輪厚コース)
所在地 北海道北広島市輪厚77
開場 昭和33年8月12日
コース規模 18ホール・7063ヤード・パー72
設計 井上 誠一
コースレート 73.7
コースレコード   アマ 東 聡 68 、プロ 深堀 圭一郎 62

(由仁コース)
北海道夕張郡由仁町光栄583
18ホール・7031ヤード・パー72
コースレート73.1
コースレコード  プロ 尾崎 直道 63

第28回 神戸ゴルフ倶楽部 ―日本最古のゴルフ場―

11番スタートで、スコティッシュ・クラシックとの直面

神戸ゴルフ倶楽部 18番グリーンからクラブハウス

神戸ゴルフ倶楽部 18番グリーンからクラブハウス

 1901年(明治34年)、アーサー・ヘスケル・グルームが、神戸・六甲山上に4ホールのゴルフコースを造ってプレーを始めた。それから100年、2001年日本ゴルフ界はこぞって、「日本のゴルフ百年」を祝ったものだ。
 しかし神戸ゴルフ倶楽部は、クラブハウスロビーのグルーム像の傍らに、「当倶楽部の百周年は2003年です」と貼り紙して、固有の歴史に怐ってみせた。1903年(明治36年)5月24日、倶楽部は初めてパイオニアメンバーを組織して神戸ゴルフ倶楽部(会長A・H・グルーム)を創立、服部兵庫県知事を迎えて開場始球式を行っている。コースも9ホールに増えていた。
 それから100年。2003年(平成15年)秋、筆者は、爽やかな小春日和の六甲山ゴルフ場を初めてプレー、滅多にない幸運に恵まれた。
 六甲山ゴルフ場は、1番ホールをスタートして18番グリーンへ上って終わる、18ホールスルーの展開になっている。しかし来場者が多いときは、アウト1番とイン11番から分れてスタートする。10番ティは、クラブハウスから遠いのだ。私は11番からスタートした。
 11番(190ヤード・パー3)は、小高い丘を超えて見えないグリーンへ飛ばすブラインドのパー3である。ピンは丘を超えた向うの直下、全く見えないから、頂上のポールを頼る以外にない。
 「パー3は1オンがセオリー」と考えている日本人には、不届きな設計に思えるが、ゴルフの故郷英国、スコットランドでは、そんなに多くもないがそんなに珍しくはない。自然をうまく戦略化したクラシックな難ホールとして、たとえば全英オープン発祥のプレストウィック5番、アイルランドのラヒンチ6番などは、日本人にも知られた名物のブラインド・パー3だ。私はいきなりの幸運と喜んだ。
 レギュラーからも186ヤード、高さ10メートルの丘だ。思い切り飛ばすしかない。1オンは忘れて思い切り打つ、途中の丘の下り斜面に落下すると、深い草木で、2オンどころか3オンも難儀になる。まぐれで1オンしたりすると拍手喝采である。

アーサー・ハスケル・グルームと初めの9ホール

 1846年ロンドン郊外セモアに生れる。1868年(慶応3年)神戸開港の年、兄フランクとトーマス・グラバーが共同経営するグラバー商会の支店設営のため神戸に入国している。
 その年に大阪・玉造の士族の娘宮崎直(18歳)と結婚。グラバー商会の後独立。神戸の日本茶、横浜の生糸などの輸出入で成功、オリエンタルホテル経営にも進出している。1985年(明治28年)6月、グルームは、息子宮崎亀次郎名義で三国池周辺の土地を借り受け山荘「101」を建てた。六甲山上の山荘第一号である。5、6年のうちに夏場だけの異人村が形成され、山荘も56軒に達した。1905年(明治38年)には、六甲山に別荘をもつただ一人の日本人小倉庄太郎が会員となり、妹末子と共にゴルフを始めている。末子は、ゴルフをプレーした日本女性第1号である。
 4ホールのコースが生れるきっかけも101山荘での、故郷を偲んでの仲間の歓談からだった。1898年(明治31年)から、グルームは、W・Jロビンソンなど4人の協力で、岩を掘り起し、雑草や笹の根を刈り取ったりと、整地作業を開始、1901年(明治34年)秋、最初の4ホールが造られた。
1番ホール(180ヤード・パー3)。4ホール時代のヤーテージは残っていない。ティは現在の位置とほぼ同じ、現在のグリーンは、丘の頂きにあるが、頭初のものは、マッシー5番アイアンで打ったりという記録があるから、150ヤードぐらいだったか。現在のフェアウエイが、山に上りかけようとしている登り口あたりだろうか。
 2番(パー3)は、西村貫一著『日本のゴルフ史』に、“現在のものと同じ”とあるから165ヤードの軽い打ち下ろしだったか・・・
 3番のティは、現フェアウエイ南側のOB区域にあって、現在の5番グリーン付近にあるグリーンに向かって打っていたようだ。
 4番ホールは、現2番ティやや北側のティから現6番グリーン近くにあるグリーンへ狙っていたようである。
 20人前後の仲間だけのプレーだから、スコアカードにヤーテージもボギー・パーもなかったようだ。
 9ホールの頃は、1~6番は、ほぼ現在と同じ。7番ホールは、現11番(パー3)を、丘越えではなく、右の山裾側へ打つパー3だったようだ。8番は現在の16番、9番は現18番ホールを、現状よりもやや原初化したものと考えたらよいか。9ホール時代も各ホールのヤーテージは不詳である。9ホールの設計は、スコットランド生れのJ・アダムソン。

六甲山ゴルフ場の魅力

神戸ゴルフ倶楽部 11番の丘をグリーン側へ超えたシーン。左は15番グリーン

神戸ゴルフ倶楽部 11番の丘をグリーン側へ超えたシーン。左は15番グリーン

 18ホールとなったのは、1904年(明治37年)10月。9ホールが増設され、18ホール・3576ヤード・ボギー78のコースとなった。3、4番を除き、ほぼ現在の原型となるデザインだという。設計はマックマートリイとアダムソン。ティグランドもグリーンもすべて砂を固めたサンドグリーン、ティだった。全18ホールがグラスティ、グラスグリーンとなるのは、1933年(昭和8年)まで待たねばならなかった。グリーンがグラス化すると同時に、グラスバンカーは砂のバンカーに姿を変えた。
 現在のホールでは、11番と並んで、7、8番そして16、18番ホールが興味深い。筆者は昔は、7、8番2ホールを「蹲った巨獣の背中のような地形の2ホール」と描写したことがある。7番(275ヤード・パー4)は、巨獣の背中越えでブラインドのグリーンを狙うスリルが豪快、北スコットランド風の古典の匂いがする景色である。ハンディキャップ2の難ホール。8番(216ヤード・パー4)は、その逆、気が遠くなるほど高く掲げたグリーンへ、山肌を取りすがりながら打ちつなぐ苦労が、また楽しい。
 16番(366ヤード・パー4)は、高いティグランドから右廻りに大きく打下しながら、遥か下に見えるグリーンを狙う大きな戦略性をもったホール。9ホール時代の8番で、人気を集めたパー4だ。
 18番(238ヤード・パー4)六甲山ゴルフ場のフラッグシップホール的存在。このティからみる赤煉瓦のクラブハウスは、文句なく美しい。特に夕景がいい。第1打を短く打下し、第2打を左へ短か目に打ち上げるホールだが、谷越えとはいえ、225ヤードだ、1オンを狙いたくなる。ドライバーを使えるホールが少ないだけに、最後でムラムラとくる?蘊蓄でいえば、最初に1オンした人は、大正時代のアマチュアの先駆者日本アマチャンピオン川崎肇氏だった。
(因みに、18番ホールは、昭和38年頃まで、冬になるとスキーのゲレンデとして開放されていたことがある。)
 六甲山ゴルフ場の18ホール・4019ヤード・パー61は、自分の中の六甲山理解を育て上げた上でプレーするとより有意義なラウンドが期待できるコースだ。このコースで、ゴルフ古典の審美性をどれだけ甘受できるか、それはその人のゴルフ教養にかかっている。このコースの玄関を出るとき、スコアを勘定するようではいけない。最後に「ヒッコリーシャフトの貸クラブでもあるともっと気分が出るね」(前日本プロツアー機構専務理事渡辺一美氏の言葉)という感想を紹介しておこう。

所在地  兵庫県神戸市六甲山町一ヶ谷
開場  明治36年5月24日
コース  18ホール・4019ヤード・パー61
設計  アーサー・H・グルーム
コースレート 61.0
コースレコード (アマ)廣海 浩三  57

第27回 旧軽井沢ゴルフクラブ

旧軽井沢ゴルフクラブ

旧軽井沢ゴルフクラブ

 夏から秋へ、軽井沢のシーズンが始った。
 軽井沢には、<新軽>と<旧軽>二つの名門ゴルフクラブがある。ともに簡単にはビジターカードが手にはいらないベリー(正真正銘の)プライベートクラブである。またメンバーになろうとしても、容易には扉を明けてくれないエクスクルーシブ(閉鎖的)なクラブという点でも共通している。
 軽井沢ゴルフ倶楽部いわゆる<新軽>については、この名門めぐりシリーズ第5回で案内したので、今回は旧軽井沢ゴルフクラブ、<旧軽>を紹介する。
 突拍子に聞えるだろうが、軽井沢のゴルフ史を繙くと、<旧軽>を造ったのは<新軽>だと判る。ひと昔前のゴルファーなら普通に知っていたことだが、今は、80%の人が、「えッ?…」と首を傾けるだろう。だからそこから始める。

<新軽>と<旧軽>どっちが先?

 明治19年、英国人宣教師A・C・ショーが布教の道中軽井沢を通りかかり、「故郷スコットランドそっくり」と心奪われ、21年大塚山(旧軽井沢)に小屋を築いたのが別荘第1号。以後外国人の別荘がみるみる増加、明治26年横川~軽井沢間に鉄道碓井線が開通して以来、外国人プラス日本人政財界人向け別荘分譲が進出した。軽井沢文化の始りである。
 大正8年、徳川慶久、細川護貞ら貴族階級と田中実、川崎肇など東京GC駒沢コースのゴルフ先覚者グループの間で、「軽井沢にもゴルフ場を…」の声が起り、8月軽井沢ゴルフ倶楽部が結成された。後の<新軽>の誕生だ。
 コース用地も、別荘分譲会社野沢組所有地を中心に、離山御膳水の(現在地)7万坪を借地、9ホール建設が進められた。設計は、セント・アンドリュース生れで当時駒沢コースにコーチとして招請され滞在中だったトム・ニコル。大正9年10月23日、用地踏査を兼ねて「ここはグリーンと赤旗を立て、あそこはティと白旗を立てて」大体の設計としたと、発起人の田中実が書き残している。簡単なルーティングを決めただけの設計だったようだ。その日草木に破られてニコルの服がボロボロになったので、洋服代30円を払ったと書いているのがおもしろい。翌大正11年夏9ホール・3447ヤード・パー36を完成。フェアウェイは野生の野芝、グリーンは砂だったが、翌12年高麗芝に改造。名物は7番パー5の674ヤードで、東洋一の長いパー5だと騒がれた。
 昭和に入ってゴルフ人口が増大、18ホールへの願望が強くなり、「軽井沢ゴルフ倶楽部」は、同じ軽井沢だが成沢地区南ヶ丘に、18ホールを新設、メンバーを引き連れて移転してしまった。
 クラブハウス、コースなど施設一切を残しての移転、借地の解約だったので、それ以後、地主の野沢組他が、パプリックの旧軽井沢コースとして経営していた。太平洋戦争が始まるまでは順調だったが、昭和18年ついに閉鎖。

<新>が<旧>を産む。旧軽の誕生

旧軽井沢ゴルフクラブ

旧軽井沢ゴルフクラブ

 敗戦後は、米軍に接収され、乗馬訓練、飛行機の滑走訓練などに使われていた。戦後の混乱の中で別荘地が分割、四散する中、昭和27年「歴史あるゴルフ場を残せ」の運動が起こり、鹿島組の鹿島守之助が、私財を投じて全敷地を買収した。守之助の父岩蔵は、明治26年の碓井線建設に関って以後、西洋人向け別荘開発に進出していたのだ。その業績は今も“鹿島の森”として残っている。
 昭和23年米軍接収が終わる。守之助は、直ちにコース整備に着手、昭和24年6月20日、所在地名に因んで「旧軽井沢ゴルフ倶楽部」の名称で、新生ゴルフ場をスタートさせた。<旧軽>の誕生だ。
 ㈱旧軽井沢ゴルフ倶楽部は、出資者100人による資本金100万円の株式会社だったが、その後入会希望者がふえ、一般会員も受け入れている。発起人代表五島慶太、出資者の中には、細川護貞、鶴見祐輔、鹿島守之助、松井春生などの名前がある。
 以上の足跡を辿ったことで、<新軽>が旧軽のコースをつくり、戦後そのコースが<旧軽>として生れ変った事情が納得されたと思う。<新>が<旧>を生む。これも歴史の諧謔であろうか。
 昭和30年アウト、インそれぞれ6ホールの計12ホール・4090ヤード・パー49(現在は48)に改造。さらに昭和48年に、アウトコースを中心に、安田幸吉が改造をしている。安田は、駒沢コース時代トム・ニコルの教えを受けている。安田は、昭和52年、53年にも主としてグリーンとグリーンまわりバンカーを改造している。53年9月、関東ゴルフ連盟より、アウト・イン・アウト70.6、イン・アウト・イン71.5のコースレートを受けた。
 昭和33年、株式会社とは別に会員により運営される組織「旧軽井沢ゴルフクラブ」を設立する。初代理事長松井春生(元東京都長官)。

旧軽に行ったらスコアを忘れよう

 旧軽は、平成元年~7年にかけて米国人マイケル・ポーレットによる大改造を行った。グリーン、グリーンまわりのデザインを現代風に近づける狙いだったようだが、マイケル自身は、アウト1番に渚のバンカーを置くなどアメリカンスタイルを試みながらも、全体としては、「日本でも最も誉れ高いコースのひとつ」を念頭に、「雰囲気を全く変えてしまうことのないように注意した」と慎重だったようだ。改造は、12ホール・3986ヤード・パー48とやや短くなりながらも戦略性と水辺の修景美を加えて今も好評である。
 結論として筆者は、「旧軽に行ったらスコアは忘れよう」と薦めたい。そこには背景の山姿を屏風にして日本のゴルフ場の美の極致が展がっているからだ。旧軽は、もとを辿れば別荘地7万坪につくられたコースだ。狭い狭間をフェアウェイとしグリーンをやや高く掲げた姿が多いのは、北スコットランドのハイランドコースを思わせる。狭いけれど狭くるしくはないのは、景色が美しいからだ。
 ある年の10月下旬。全山紅葉の1番ティに立ったとき筆者は、そこに広がる圧倒的な彩色の広がりに圧倒されて「これはこれはとばかり旧軽井沢・・・!!」と驚嘆、暫くティアップを忘れた記憶がある。
 京都に行ったらまず清水寺に行くように、軽井沢に出かけたら必ず旧軽でプレーしたいものだ。スコアの問題ではない。日本的自然美を磨き抜いてゴルフコースにしてしまったような名作が、そこにあるからだ。

所在地 長野県北佐久郡軽井沢町字軽井沢1372-3
開場日 大正8年
コース 12ホール、3968ヤード、パー48
 (アウト6H、イン6H。アウト・イン・アウトで18ホールとする)
設計 J・マイケル・ポーレット
 原設計 トム・ニコル
コースレート 18Hで70.5

第26回 宝塚ゴルフ倶楽部

宝塚ゴルフ倶楽部 旧コース18番ホール

宝塚ゴルフ倶楽部 旧コース18番ホール

宝塚ゴルフ倶楽部は、関西地区屈指の名門である。筆者は嘗て「それも神戸ゴルフ倶楽部はもとより廣野とも茨木とも違う色合いの名門である」と書き、更に「その他の名門とは違った意味で、見栄えのする名門である」と念を押して書いたことがある。理由がある。
 83年前、宝塚GCは、大阪・茨木CCが入会金500円で会員を集めているとき、「ゴルフは富裕階級だけのものではなく、誰もが楽しめる倶楽部」をめざして、僅か30円で会員を募集して出発した倶楽部である。さらにおかしいのは、それを提唱したのが、茨木CCの創立功労者広岡久右衛門たったことだ。大衆化をめざしながら高級感のある名門として歩いてきたこの微妙は、そこから生れているのだろう。
 もう一人の恩人がいる。阪急電鉄創業者小林一三である。「阪急沿線につくるなら、そこらのゴルフ場に負けないコースをつくれ」と、自分がメンバーでもない、阪急系でもないのに、土地を貸したり、資金援助までして宝塚GCの創生期をバックアップしている。
 小林一三が登場してから宝塚~大阪間は、鉄道網の整備、大正3年の少女歌劇創設、宝塚大劇場、宝塚ホテル、ダンスホールの宝塚会館など新しい祝祭的街空間、そしてミッション系学園、高級な住宅街が発展、新しいライフスタイルをもった街空間が連なるように広まった。人呼んで阪神間モダニズムである。その中の一つ宝塚ホテルが宝塚南口駅前に登場したのは大正15年8月14日。8月には、5階に、囲碁、将棋、撞球から庭球、射的などの施設を揃えた社交倶楽部の宝塚倶楽部が誕生、その一つゴルフ部が宝塚ゴルフ倶楽部の始まりである。10月4日には、すぐ近く逆瀬川上流高台のみかん畑甘香園に3ホール(350Y、80Y、400Y)を造成、日本のプロ第1号福井覚治が設計したコースだったが忽ち満員。翌昭和2年10月6ホール(設計・福井覚治)に拡張するが、これも大混雑で、途中で広岡久右衛門設計の9ホール・2678ヤード・パー34に延長。翌年4月には、社交倶楽部「宝塚倶楽部」ゴルフ部と訣別、宝塚カンツリー倶楽部と改称、新しくスタートする。翌昭和4年9月22日、阪急今津線付近仁川の岸まで拡げた広岡久右衛門設計による9ホール・3025ヤード・パー35に再改造、11月から婦人会員制を実施して注目された。
 待望の18ホールズが開場するのは、昭和5年10月5日。18ホール・6102ヤード・パー70。設計・広岡久右衛門だった。この18ホールは、折から朝霞、廣野の設計で来日中のH・Cアリソンが視察、助言しており、それに従って改良したとしているが、改造箇所は、具体的には分からない。因みに関西地区では、茨木CCに次ぐ2番目の18ホールだった。
 戦時中海軍、戦後は米軍に接収されていたコースは、昭和22年アウトの9ホールを復旧、大谷光明設計の18ホール・6393ヤード・パー70で復活するのは米軍管轄下の昭和22年5月、18ホールを含む全施設が返還されたのは、講和条約発効後の昭和26年12月1日まで待たねばならなかった。
 昭和28年10月5~7日初めての日本オープン選手権開催。優勝孫 士均(小野光一)スコア291(パー280)
 昭和34年11月10日、新コース18ホール・6665ヤード・パー72の新コースが完成。設計大橋剛吉(宮崎県のフェニックスCC設計)、服部 彰。西日本初の36ホールだった。

旧コースは短い、しかし難しい。

宝塚ゴルフ倶楽部 旧コース

宝塚ゴルフ倶楽部 旧コース2番ホール

 宝塚GCの36ホールは、広くて長い傾斜地の上にひろがっている。したがって地形のもつ自然ながらのスロープが、コースの戦略性、個性ということになる。特に旧コースは、一見したところ平坦に見えるスロープに展開しているので自然のかたち、変幻、そこから生れる錯視、錯覚みたいなものに、どこまで用心深く、読み違えないようにするかがカギになる。距離はないから、パワーや勇ましすぎる決断は要らない。しかしだからこそ逆に、そこがおもしろくも難しいのである。
宝塚GCへ行く。「新と旧どちらを回りましょうか。」と尋ねると、3人のうち2人は、「それは旧コースですよ」というのは、その辺の気配のおもしろさをいうのである。
 新コースは、旧コースよりは長いには違いないが、際立って長いわけではない。
 旧コースは、長くて広いスロープの中で、9ホールのうち4ホールは打下し、第2打も打下し、残り4ホールは打上げ、打上げとつづく、間にフラットなパー3を置くというルーティングを覚悟しておけばいい。(勿論、そのバリエーションはあり得る)、アウトがそうならインはその逆、始めの4ホールは打上げ、打ち上げ、残りの4ホールは打ち下し、打ち下し、間に水平なパー3を挟む。そういうルーティングを頭の中で予想する。
 問題は、打ち下し、打ち下しと続いたあとに起りやすい錯視だ。その先のグリーンが水平に置かれていても、打ち下し、打ち下しの先だと、受けグリーンに見えやすくないか。打ち上げ、打ち上げと続いた先の水平なグリーンは、アウェイに見えやすくないか。
 旧コースのおもしろさは、そういう意識下のこだわりとの確執を楽しむ余裕を持ち合わせているかどうかだろう。

宝塚GC人気の理由

 最近の相場表では少し違うようだが、一時期この倶楽部の相場値が、関西圏の最高値を続けていたことがある。奈良国際とトップ争いをしていたりした。確かに高級コースである。しかし高級感だけが高値の理由だろうか。
 筆者は、別の見方をしている。
 宝塚GCは、クラブライフの新しいスタイル、新しいモデルを創り出している倶楽部として、もっと記憶されてよいだろう。宝塚GCは、嘗ての田中ローズ、泉谷珠子、清元登子を生み出したように、アスリートレディスゴルファーが多い。女性会員150名、公式レディス倶楽部競技が月に数回もあるクラブは、そんなにはない。女子倶楽部選手権、女子理事長杯を行っているクラブはもっと少ない。それもここでは、男子と同じくマッチプレーでやっていた。レディスだけではない。グランドシニアのためには、ハーフ(9ホール)だけ回る準倶楽部競技もつくられている。
 いいクラブライフとはなにか。メンバーが楽しみたいように楽しむ扉をいくつも用意しておくことではないか。広岡久右衛門氏が残した「みんなが楽しむ倶楽部」の精神とはそういうことだ。そういえば15年前、阪神淡路大震災で、自らコース、ハウスに大被害を蒙りながら、どこよりも早く被災市民に大浴場を開放し、生活給水に奔命したのも、宝塚ゴルフ倶楽部だった。

所在地 兵庫県宝塚市蔵人字深谷1391-1
開場日 大正15年8月7日
コース (旧)18ホール・6192ヤード・パー70
 (新)18ホール・6665ヤード・パー72
設計 (旧)福井覚治、広岡久右衛門
 (新)大橋剛吉、服部 彰
コースレート (旧)70.1  (新)72.3
コースレコード
  旧(プロ)新井規矩雄 64
  旧(アマ)竹石 要佑 61
  新(プロ)藤田 寛之 61
  新(アマ)池田 勇太 64

第25回 日光カンツリー倶楽部

自然(神)と設計者と幸運の合作

日光カンツリー倶楽部 クラブハウス

日光カンツリー倶楽部 クラブハウス

栃木県には、昭和11年開場の名門那須ゴルフ倶楽部があったが、地元では、東京人が造ったゴルフ場だと思っていた。
 「世界に名を知られた日光に、栃木県人によるゴルフ場を造ろう」。それは、初代の民選知事小平重吉の政策目標だった。昭和28年7月の発起人会には、県知事、副知事、日光町長、今市町長と並んで金谷ホテル、鬼怒川館も。株主には東照宮、輪王寺、二荒山神社の名も並ぶ。加藤恭平(程ヶ谷CC会員)、杉田 寧(我孫子CCキャプテン)、加藤次郎(程ヶ谷CC会員、霞ヶ関CC会員)、島田善介(相模CC理事長)の4名には、県知事が「日光ゴルフ建設に関する技術を嘱託する」という辞令を交付、立上げ資金、用地確保、工事も県営という県内挙げてのゴルフ場として造られた。
 設計の井上誠一氏は、まず中禅寺湖畔、霧降高原など日光の山を探索した後、結局大谷川の旧河床42万坪に落着く。現在の大谷川は9番ホールの外側を流れているが、明治期の2度にわたる大洪水で流路を移動した。それまでは、現在のゴルフコース用地が、大谷川の川床だったのだ。そのために川床だった用地内のいたる所に転石、磧がある。普通の用地のように、土砂の切り盛りでマウンドを造ったり、掘り下げてバンカーをつくることも儘ならない。戦略性を高めるためのハザード、マウンドをどう設置したらいいのか、自然の凶々しさに設計者が立ち往生するところだ。しかし井上氏は、自然との妥協の仕方、自然の使い方を知っていたようだ。井上氏は書き残している。
 「然し、幸場内には大小の川柳をはじめ、松林や樅の独立樹など他所には珍しい風致にも恵まれているし、地形も変化して望ましいものなので、樹木や磧や流水などを自然障害物として出来るだけ利用して風致を纏め、Bunker等の人工障害物は成可く避け乍らPlayの興味を増大するように方針を探る」(『井上誠一のコースデザイン』より)
 バンカーは僅か36ヶ所、グリーンまわりにバンカー1つというのが10ホールもある。動かせない転石は、クラブヘッドを痛めない程度の芝生を被せて残したそうだ。転石、磧も、悩むどころか逆に「土壌に石が多いために松は、根が深くならず、地表に浅く横に張るために、背丈も高くならず、枝は横に張る。それがティショットやグリーン狙いのアプローチショットでプレッシャーとなる。松の育つ頃には、日本屈指のコースになる」
予想的中。4番のティショット、5、12、14、16番のグリーンへのアプローチショットは、ラインを少し外れると、横に張られた松の枝がプレッシャーとなる。
設計者井上誠一氏は、自然のもっている窯変力を予想して30、40年後の姿を心待ちして、“力を十分には揮わず、むしろ抑えぎみ”としているかのようだ。
 フランスの文芸評論家サント・ブーヴの「名作とは力を揮った作品ではなく、力を抑えた作品である」という名言を連想させるコースである。

“力を抑えた”井上美学の傑作

日光カンツリー倶楽部 3番ホール

日光カンツリー倶楽部 3番ホール

 「ほんとの良いコースとは、自然(神)と設計者とそして幸運が一体となって生れたコースではないでしょうか」
 これは平成15年日本オープンを前にして日光CCを改造した川田太三氏が、日光CCについて語った(設計者)言葉である。川田氏はさらに詳説する。
「日光の冬は、相当厳しく、フェアウエイ表土の下が凍ってしまい春になっても、仲々溶けてこない。それも日当りによって、溶ける速さが違うから、オープンする頃にはフェアウエイのかたちが変わっていることがあるというのである」
こうした変容(窯変)力は、50~60年の歴史を重ねた結果、日光CCのフェアウエイに、見た目の平坦さとは全く別の微妙、戦略性をもたらしてきたのである。そのことを川田氏は設計者らしく、「基礎造形に自然が歩み寄った日光CC」と表現している。
 日光CCのフェアウエイは、大きな全景の中では、殆ど平坦に見える。しかしクラブハウスから1番ティ、10番ティへ渡る橋の下の谷川が、音立てながら流れているのに気づく筈だ。地形が急傾斜だから谷川は音立てて流れるのである。
 厄介なことに、日光CC42万坪は、標高465メートルのクラブハウスを中心に、かなりの急斜面に拡がっているのだ。アウトは男体山方面へ29メートル上り、戻る。インコースは、逆の地形を26メートル下り、そして戻る。芝目は男体山から下へ流れる。つまり1~3番グリーンでは、奥下りグリーンの部分は、下り傾斜だが芝目は逆目と複雑になる。インコースでは、クラブハウスへ戻るホールのグリーンで同じ錯覚が起きる。アウト、インの戻りホールでは、さらに逆の錯覚となるから用心々々。
 また上り勾配フェアウエイ先のグリーンは、フラットなグリーンでも奥下りに見えやすく、下り勾配フェアウエイ先のフラットなグリーンはアップライトに見えやすい、アプローチミスが出やすいという難しさが生れる。
 日光CCには、他コースに類例のないいくつかの長所がある。まずここには、受けグリーンが一つもない。第2打点からみて、完全な受けグリーンに見える9番グリーンにしても、向う下りになった後半分は、第2打点からは見えないように隠されているのである。因みに、英国の設計家ジョージ・ロウによると英国では、受けグリーンは軽蔑され、奥下りのグリーンは尊敬されるそうだ。
 1番ホールは、日光CCの雰囲気を象徴する。ティからグリーンまで、右側に葉の小さな日光独特の小米柳の独立樹が10本近く、点々とつづく。今は亡き增淵英男支配人から「植樹は一本もない。自生した木を残して選んだ」と、聞いたことがある。50~60年経って、10メートルの高さに伸び、さらさらと軽やかな量感の枝張りをしていて、井上氏のいう“他所にはない風致”が、そこにはあった。
 平成15年10月、日本オープン開催。優勝深堀圭一郎 8アンダー、276ストローク、
所在地  栃木県日光市所野2833
開場日  昭和30年4月3日
コース  18ホール・7061ヤード・パー72
 (日本オープンは7027ヤード・パー71)
コースレート  73
コースレコード  (アマ)星野英正 67
  (プロ)前島 禎 67
  (日本オープン最終日、深堀圭一郎 64)
設計者  井上誠一
改造設計  川田太三

第24回 飯能ゴルフクラブ

8番池越えパー4の伝説

飯能GC クラブハウス正面 平成11年新築となる

飯能GC クラブハウス正面 平成11年新築となる

 「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」とは、国木田独歩の名作『武蔵野』の冒頭の文章である。
 入間川沿いに、川越から狭山へ国道16号に車を走らせる。右手の沖積台地、入間台地は、昔そこは一面に広がる松の平地林だった。今は霞ヶ関CC、東京GCなど亭々と高い赤松の樹木をつらねていかめしい名門コースが並ぶ。一番奥の飯能GCだけには今も、独歩が惜しんだ武蔵野の修景が少しは残っている。
 東京GC、霞ヶ関CCは日本屈指の超名門倶楽部、コース設計も名匠ズラリで難しい。武蔵CCは井上誠一設計でバンカーの数は120、難易度抜群だ。だが揃ってフェアウエイは広くて平坦、「ほんとに難しいのは飯能GCではないか」という人は意外に多い。理由は、国木田独歩のいう武蔵野の俤を色濃く残しているからだ。
 名コースにはしばしば名10番ホールがある。アリソンバンカーで有名な霞ヶ関CC東コースの10番ホール(156ヤード、パー3)がその代表。飯能GCの10番ホール(406ヤード、パー4)もそう、名10番ホールだ。なにかの都合で、朝のスタートが10番からになったら、その日のゴルフは一日中楽しい筈である。
 10番ホールの第1打は、約180ヤードの池越えながら、パー3ではなくパー4にしたのが設計者の戦略だ。池の名は、河童の悲恋話のある鯉ヶ久保(恋ヶ窪)。池の上手に男河童、下手に女河童が住んでいたが、ある年渇水のため池が乾上り逢引きが出来なくなって嘆き悲しんだという話だが、『新篇武蔵風土記』では、「往昔この地に鯉魚の大きなもの居ればー」と鯉のヒロインになっている。
 池を越えた先のフェアウエイは、かなりの角度で左へ傾いている。しかも左右に深い林立を伴走させているから、第1打の着地点が肝心だ。落下後コロコロと左へころがったら林立の中へ、3オンどころか4オンも危くなる。設計者和泉一介は、「ハンディ15を念頭に設計した」と言っているが、白マークからプレーする人の話ではないか。

戦略化された武蔵野の俤

 所在地は、飯能市芦刈場495。
 飯能の地名は、鎌倉時代関東で勢いのあった武蔵七党の一つ丹党の一族判乃氏が根拠地としたため。13番ホール沿い、国道脇の浅間塚は、判乃氏の姫と源頼家にまつわる首塚である。芦苅場村は、江戸幕府編『新篇武蔵風土記』には、「陸田多く水田少し」と触れただけ。葦の生い繁った38戸ばかりの塞村にゴルフ場計画が動き出したのは、昭和32年頃。参議院議員平島敏夫が初めは、理事長を勤めていた大東文化大学の移転先とする計画だったが、現地視察でゴルフ場に変更した。平島は当時すぐ近く青梅ゴルフ倶楽部(昭和33年開場)を造り上げたばかりだった。
 昭和34年2月㈱飯能ゴルフ倶楽部設立。理事長、社長東谷伝次郎(会計検査院長)、資本金1億8000万円。株主制正会員25万円で300名の第1次会員を募集。

飯能GC 10番ホール パー4

飯能GC 10番ホール パー4

 コース設計は、和泉一介。鷹之台CC(千葉県)では、井上誠一の後を受けて18ホールを仕上げ、隣接する武蔵CC笹井コースでは、井上がルーティング、和泉が詳細設計と分担した仲で、井上誠一ワールドを最もよく知る後輩設計者である。コースは、笹井コースに隣接する6ホールは全くフラット、道路を越えてクラブハウス側3ホールとインコースには自然の顔立ちとしての変化が加わる。アウトでは唯一、9番(511ヤード、パー5)がドラスティックに伸びやかである。
 インコースでは、10、11,13、15、17、18番ホールが印象に残る。11番(431ヤード、パー4)では、右の丘に置かれた右グリーンを狙う場合の第1打のランディングポイントをどう選ぶか、難しい。13番(405ヤード、パー4)は、唯一正真正銘の右ドッグレッグホールだ。バーディとダブルボギーに岐れることも。15番ホール(443ヤード、パー4)は、コース内隨一のサクラの名所、昔の飯能GCでは、4月第1日曜には、15番ティ付近に緋毛氈を敷いて花見酒を酌み交わしたという。飯能GCだけの風流なクラブライフだと、他クラブのメンバーを羨やましがらせたものだが、今はどうだろうか。
 17番ホール(580ヤード、パー5)は、グリーンが、10番ティの対岸に戻ってくるルーティングになっていておもしろい。グリーン前の大木と、グリーンの右半分を池側に向かって無防備に見せたグリーンの置き方に、緊張させられる。
 18番ホール(329ヤード、パー4)は嫌われホールだ。女性で言えば、チビのいたずら娘というとこか。左に池の水面が続くので右めを辿ると、ラフからグリーンバンカーまでどこでトラップにからまれるか油断ならない。勇気をもって左攻めということになるが・・・。
 2000年日本女子オープンでは、最終日終盤6人が6オーバーで並ぶという大混戦。結局18番グリーン上、米山みどりが1メートルのパーセーブを外し、肥後かおりが1.5メートルのパーパットを入れて、やっとこ5オーバーで優勝している。やはり難しい18ホールズだ。

所在地:埼玉県飯能市芦刈場495
TEL:042-972-3680
開場日:昭和34年11月16日
コース:18ホール、6882ヤード、パー72
設計:和泉一介
コースレート:72.7
コースレコード:プロ 中島常幸66
        アマ 鈴木軍治66

第23回 我孫子ゴルフ倶楽部

名門誕生・二つの伝説

我孫子GC 18番グリーン

我孫子GC 18番グリーン

 名コース、名門ゴルフ倶楽部の「我孫子ゴルフ倶楽部」の歴史は積み重ねられて80年、どのようにつくられてきたのだろうか。
 我孫子という土地の発祥は古い。大昔は、あぢことも、あちこくとも言い、安孫子、阿孫子とも書いたそうだ。江戸時代は、水戸街道と成田街道の接点、水戸藩の本陣、成田山新勝寺参詣の宿場町として栄えた。大正末期から昭和初期には、利根川と手賀沼に囲まれた一帯を“北の鎌倉”と称して、寓居を構える文化人たちが集まっていた。志賀直哉、武者小路実篤など白樺派の文人、朝日新聞の杉村楚人冠、柔道の嘉納治五郎まで、外国人では陶芸家のバーナード・リーチなど。だが産業がない、農村部の疲弊が大きい、悩む32歳の青年町長染谷正治に、「ゴルフ場を造ったらどうだ。」と杉村が、東京ゴルフ倶楽部の中心的人物森村市左衛門を紹介した。森村は、当時ゴルフ倶楽部経営に熱心な意欲をもっていた東京GC会員加藤良を紹介する。さらに、加藤は、同じ東京GC会員で、すでに第一回日本オープンで、プロを10ストローク差で押さえて優勝、絶対的人気の赤星六郎にコース設計を依頼する、という人間関係の中で、計画は、東京GCのバックアップの中で進行する。
 今も残る「我孫子ゴルフリンクス平面図」の欄外には、「本設計ハ、赤星四郎、六郎両氏が、巧ミニ地形ヲ利用シテ・・・」と注釈がある。現地を見た赤星六郎は、手賀沼と利根川に面した絶好な舌状台地と、その中にいくつかの谷地(地溝)がある地形を気に入って、「従来の無難なコース設計から、大胆な、芸術的な設計者の個性を発揮したコースがある筈だと感じた」という感想を残して、設計を快諾している。谷地とは、現在のコースでみると、2、3番、6、7番、10、11、12、13番ホールに見られる大きなハロー(地溝)のことで、自然の変化をそのままコースの戦略性として導入できることが、赤星六郎の心を捉えたようだ。
 (因みに、赤星六郎のコース設計には、随時兄四郎の参考意見が加わり、さらに工事現場では、狩野三郎技師が主に働いている。狩野は、川奈ホテル・富士コースを六郎が設計したときのパートナー。残念ながら六郎の富士コースは、60%でき上がった時点で、アリソンの現・富士コースと取り換えられ姿を消している)
 我孫子GCには、もう一つの伝説がある。
創業者加藤良は、一年に365回ゴルフをプレーする男といわれた程の熱心なゴルファー。
東京GC駒沢コースでのゴルフ仲間の一人に、後に小金井CCを創建する深川喜一がいた。2人は、駒沢コースが、華族、財閥を中心として運営されていることに反発、「もっと誰れでもが楽しめるクラブライフ」をつくろうと機会を窺っていた。加藤が我孫子GC、深川が小金井CCを、誰れもが加入できる株式会員方式で創建したのは、その趣旨である、というもう一つの伝説がある。
 昭和5年10月5日、インコース開場、昭和6年10月18日、最初のコース18ホール・6503ヤード・パー71が本開場、小さくて固く背を丸めた1グリーンだった。バンカーに入れたらグリーン上にボールを止めるのは難しく、“我孫子のグリーンは難しい”と有名になった。しかし我孫子のアマの名手もプロも、絶妙のコック・コントロールで、ピタリとピンに寄せた。

“赤星六郎古典”の攻め方

我孫子GC 7番グリーン

我孫子GC 7番グリーン

 現在の我孫子GCのコースには、昭和5年開場当時の“赤星古典”の原型は、それほど色濃くは残ってはいない。深いバンカーから亀の甲のようなに小さな丸いグリーンへ向かって乗せるバンカーショットの難所は、殆んどない。2グリーン化、ベントグリーン化といった近代化への数次の改造で、グリーンがやや大型化し、さらにサンドベース構造になったことで、グリーン面も、昔を知る者には、ややフラットに変っている。
 我孫子コースを攻めるときの面白さ、難しさは、たとえば、10、11番を横切り、12番ホールそのものを形づくっている谷地(大きな地溝、攻めるときのグラスハローのへこみ)をどう解釈し、どう攻略するかにある。
 その代表例は、6番(507ヤード・パー5)の第2打で幅60メートル、深さ9メートルの谷地を越える場面である。
 第1打で飛ばしすぎると谷に落ちてグリーンが見渡せなくなるし、第1打をへこみ前のどの距離、フェアウエイの右か、左か、ランディングポイントのアキュラシー(精度)の争いとなる。
 7番(224ヤード・パー3)は、6番ホール第2打の折り返しである。女性、男性アマならドライバーになることも。見える地点に置いて2オンがいいかもしれない。
プレー上注意したいのは、10番(498ヤード・パー5)と折り返し11番(405ヤード・パー4)を横断する谷地(グラス・ハロー)である。二つの谷地は同じ一本のもの、10番第1打で越えた谷地が、11番では、グリーン前の谷地、グリーンを狙うために越えるグラスハローとなる。したがって、クランクシャフト状に屈曲している10番ホールを1、2打とプレーしながら、左隣の11番の展開を探偵しておくことが肝要になる。特に11番ホール、第2打の距離、グリーンの傾斜の読み込みが大切である。
 我孫子のバンカーは深いと恐れられている。アリソンのバンカーほど深くはない。赤星六郎は、自分のパー3について80パーセントの精度で征服できると言っている。だからパー3では、グリーン中央を狙えとも言っている。従って小さいグリーンで十分、いうことらしい。
“赤星古典”をそう考えて、今の我孫子コースを攻めてみたらどうか。

新しい名門へ、意欲的な姿勢

 戦時中日本のゴルフ場の大半は、軍に接収され荒廃する。我孫子GCも例外ではない。13番パー3は防空陣地となり、全コースは海軍経理学校に貸与される。この混乱の中で、原設計のコースは姿を失い、昭和26年井上誠一による改造設計で2グリーンとなる。昭和61年サブ・グリーンはベント化、平成6年には、大久保昌改造で、本グリーンもサンド構造のベントグリーンとなり、“背を丸めた小さなアビコグリーン”は姿を遠去けてゆく。
 我孫子GCの幸運は、戦後米軍の接収を免れたことだ。昭和21年10月7日には、ガタルカナル島から復員した山本増二郎プロ(後に日本プロ協会会長)が、プロ室入口に関東プロ協会の標札をかけた。会員18名、月例優勝は米1俵、豚1頭だった。林由郎も戻り、彼の兵隊踊りは、ひとしきりゴルフ界を賑やかにした。昭和24年戦後初の日本プロ選手権は我孫子で行われ、林由郎が優勝。
 最近の我孫子GCは、“新しい名門”へ改革の先頭を走ろうとしているようだ。『倶楽部75年史』で、100年までに1グリーン化を約束したり、名門の変な衿持にこだわらず、日本シニアオープン、日本女子オープンなど“準メジャー”にコースを開放、一方では、『ロクロー・アカボシ・アーカイブス』の発行など、文化活動も目立っていて、注目される。
所在地 : 千葉県我孫子市岡発戸1110
開場日 : 昭和5年10月5日
コース : 18ホール、6778ヤード・パー72、レート72.3
設 計 : 赤星六郎  
コースレコード アマ 小川晃弘 70 プロ 陳志明  66

第22回 愛知カンツリー倶楽部

ゴルフ知事が遺した名コース 

愛知カンツリークラブ クラブハウス玄関

愛知カンツリークラブ クラブハウス玄関

 愛知カンツリー倶楽部は、今年10月14日~17日の間、日本オープン選手権競技の会場となる。昭和32年9月小針春芳優勝(288ストローク)昭和46年9月藤井義将優勝(282ストローク)に次ぐ3回目の開催である。1回目と2回目は14年間、対して2回目と今回の間は、36年間と大きく間隔があいたのは、昭和46年開催に際して、当時の革新系知事から「県有地で贅沢スポーツのプロゴルフとは何事か」と批難されたからという説がある。県議会でも「住宅地に開放せよ」「県営パブリックにせよ」という声も強かったそうだ。
 愛知CCのエントランスは、まるで深山に分け入るかのように森が深い。県有地牧野ヶ池緑地という森林公園中にある。その昔は尾張徳川藩の御狩場、太平洋戦争中は、名古屋市街を守るための防空緑地に使われたそうだ。
 戦後、経済が復興し始めた昭和28年、ここに着目したのが、“ゴルフ知事”と異名をとった桑原幹根知事だ。当時名古屋のゴルフ場は、名古屋GC和合コースだけ。その和合も、米軍に接収されて、日本人はプレーもままならない。溢れたゴルファーたちは京都、山科コースまで遠出した。「和合の他にもう1つ・・・」その機運を先取りしたのがゴルフ知事桑原さん。昭和29年東山ゴルフ倶楽部として誕生、設計は井上誠一、用地が県有地なら施工も県土木部だった。開場後社団法人愛知カンツリー倶楽部と改称。しかし名古屋では今でも、愛称「東山」で呼ぶ人が多い。(因みに前2回の日本オープンでは、パー74で争われている) 

井上誠一、もう1つの顔

愛知カンツリークラブ 14番ホールグリーンから 右がセーフティルート左下りになるので、2オンは無理

愛知カンツリークラブ 14番ホールグリーンから 右がセーフティルート左下りになるので、2オンは無理

 愛知CCのコース設計者は、井上誠一である。井上の代表作は、大利根CC、鷹之台CC、武蔵CC・豊岡、笹井など、平坦な松の平地林の中に造られた端正な造型美のコースが多い。等高線の乱れの少ないスルーザグリーンに、形のいいバンカーを掘る。その土量で適度にエレベートされたグリーンを造り、バンカーには、ハンモックマウンドをあしらったりする。グリーンはときに、婉やかな女性のボディを彷彿させたりする。いつか設計家加藤俊輔氏に、「井上誠一が他にすぐれた点を1つ挙げるとすれば・・・」と訊ねた。答えは「造型力でしょう」と簡明だった。
 東京人は、井上誠一を「平坦地の巨匠」と思ってきた。しかし、我々は愛知CCで、冒険好きの青年のような井上誠一と巡り会うことになる。地形的には丘陵だが、一部は山に近い。この地形を見た時の井上は、まるで自分の“居場所”を見つけたかのようだ。
 「ここの最大の長所は、自然地形がゴルフコース用地として理想的であることでした。複雑な起伏があるにもかかわらず、いずれも1ホールの必要にして充分な幅を持った平坦地が尾根によって隔てられています。従って、各ホールとはそれ自体で、自然のままセパレートされています。こんな素晴らしい用地は日本中を探しても恐らく得難いと思いました。事実、現在までのところ、その通りです」
 同じ頃井上は、自身が設計した大利根CC・36ホールについて、全体が同じく見える松の平地林の中に造られていて、自分で設計しながら今何番ホールにいるか判らないほどだ、と嘆いている。意外!!、井上が本当に好きだったのは武蔵CCや大利根CCのような平坦な地形ではなく、複雑な起伏の多い地形だったのだ。「平坦地の巨匠」と讃えられた設計者の本当の姿は、変化に富んだ自然地形を縦横に利用して高度の戦略性を表現する丘陵好みの巨匠だったのだろうか。

右するか、左するか 人気の14番「アパッチ砦」

愛知カンツリークラブ 14番ホールティグラウンドから 右がアパッチ砦

愛知カンツリークラブ 14番ホールティグラウンドから 右がアパッチ砦

 尾根と谷が複雑に入り組む地形に、青年設計家のように嬉々として取り組んだ井上誠一を、愛知CCに探すとすれば、文句なしに14番(539ヤード、パー5)「アパッチ砦」である。
 ティグラウンドの前方、右側にこんもりと盛り上った丘の上に一本のフェアウエイがある。こっちがアパッチ砦だろう。真上を通しても第1打落下点は見えない。しかしグリーンにはより近づく。
 もう一本のフェアウエイは左側幅が広くおだやかな表情で低く伸びている。第2打落下点はよく見える(或いは予見できる)グリーンからは遠回りになるが危な気なく、パーセーブできる。
 右はヒロイックルートあるいはギャンブルルート、左はセーフティルートである。とはいえ右のルートはふけた場合に、左側は突き抜けた時、ともに0Bの危険がある。
 理論的には、コルト&アリソンのダイヤゴナルハザード理論の応用で、対角線上に置かれたハザードを巡って、自分のキャリーをどう選択するか、そこに戦略性を表現しようというレイアウトだ。井上はここでは、バンカーに代えてアパッチ砦という目障りな小山を置いたのである。アリソンの影響を受けた井上としては、優等生の応用である。
 因みにこのホールは、「日本のベスト18ホール」の14番ホールに選ばれたことがある。
 右するか左するか。井上誠一自身は「キャリー180なら右の背骨(馬の骨)を越すが、無理をせず一度台上にのせてもパーセーブ5は困難ではない」と書く。(馬の骨とはアパッチ砦、台上とは左フェアウエイのこと)昭和39年日本アマチュアでは、中部銀次郎が左フェアウエイから攻めて優勝。今年秋の日本オープンでは、石川遼プロはどちらを選ぶか。右かな?

日本オープン前に大改造

 愛知CCは、日本オープンを前にコース改造を終っている。総ヤーデージも6961ヤードから7140ヤードに延びた。しかし今のゴルフなら、日本オープンはパー72か。14番ホールもチャンピオンティは9ヤード、レギュラーティを34ヤード後方へ延ばし、さらに低くしたので砦がより高く感じられるようになった。さらに右フェアウエイライン上に高い4本の木が植えられ、スタイミーになった。それでも右狙いが増えるか。
 従来の愛知CCは、17番グリーンを終った後、17番沿いに約200メートル戻って18番ティにつないでいたが、改造で18番ホールは、ティグラウンドを59ヤード後方へ延ばした。その結果17番グリーンと18番ティの間の逆戻り区間は、約140メートルに縮められた。

 

所在地 : 名古屋市名東区猪高町高針字山の中21-1
開場日 : 昭和29年10月10日
コース : 18ホール、7140ヤード・パー74
設 計 : 井上誠一  レート73.4
コースレコード  アマ 藤木尊茂 68
         プロ 石井廸夫 66・改造後 乗竹正和 68

第21回 戸塚カントリー倶楽部

都市型名門クラとしての近未来

戸塚カントリー倶楽部 クラブハウス正面より

戸塚カントリー倶楽部 クラブハウス正面より

 5年前になる。平成17年10月2日午後3時、戸塚CC西コース18番フェアウエイは、ギャラリーエリアから溢れ出した1万人以上の大観衆で湧き返っていた。この日、日本女子オープン競技が集めた観客数は4万8677人。不動裕理が優勝した前年(広島CC八本松)の1万2703人に比べ、4倍する人気沸騰ぷりだった。取材でフェアウエイを歩きながら、何かが変わる、歴史が変わる、という昂奮があった。
 むろんその1番の理由は、その年の春高校生で女子プロ競技に優勝した宮里藍の超々人気である。しかしその陰で見落されてはいけないのは、舞台となった戸塚カントリー倶楽部の抜群の立地条件である。東京からは横浜新道利用で玉川インターから川上インターまで25分、横浜市街から20分。ヒンターランドに東京、横浜という巨大都市をもつ都市型名門ゴルフクラブ「戸塚CC」の現在と近未来を象徴するような、圧倒される光景だった。

始まりは旧制七高の同窓会だった

 『戸塚カントリー倶楽部三十年史』(以下三十年史と書く)によると、戸塚CCの場所は、武蔵国と相模国の分水嶺に当たるそうだ。クラブハウスの場所が最高地点で、クラブハウスの屋根の高さとほぼ同じ高さの山だったとか。そこはまた横浜市内で最高の山だったという。
 立地条件がいいので、戸塚CC以前にも、幾つかのゴルフ場新設計画が動いたこともあるらしい。
しかし、場所は同じでも、戸塚CCの創立動機は、全く別の新しいものだった。
 昭和33年、「東京→大阪間に新幹線ができたら、戸塚辺りに新駅が出来る筈、東西財界の交流も多くなるだろうが、霞ヶ関CCではゴルフは遠すぎる。財界中心の高級ゴルフ場を造ろう」と、言い出しっぺは、三和銀行頭取渡辺忠雄を中心とした旧制第七高校(鹿児島)の同窓生たちだった。東洋経済新報副社長山田秀雄、東洋電機社長三輪兵吉、京成電鉄社長橋口正幸、一期下の電通社長吉田秀雄も加わった。昭和33年11月19日神奈川観光開発(株)設立、社長三輪兵吉だが、健康を害して吉田秀雄と交代。本社は桜木町の三和銀行横浜支店内に置かれた。財界からは、野村証券社長奥村綱雄、大日本精糖会長藤山愛一郎、松竹社長城戸四郎、大林組社長大林芳郎、日本通運社長福島敏行らが、発起人に名を並べた。
 目的は、一般募集の会員制クラブではなく、東西財界の交流の場としてのゴルフクラブだった。中心となった企業は、電通と三和銀行である。

精力的だった吉田秀雄社長(電通)

戸塚CC西コース5番ホール パー3

戸塚CC西コース5番ホール パー3

 社長となった電通社長吉田秀雄の動きは、精力的だった。コース用地は山また山、高低差30メートルの“鋸のような屋根と深い谷が入り組んだ”九十九谷戸という幽谷だった。土質も少し掘ると粘土質の沖積層「土舟」が出た。現場の人間は、鎌倉ボタと呼んだ。ダイナマイト発破をかけても、ブスっと不機嫌な音をくすぶらせるだけ。工事費も工期も、常識の2倍はかかりそう。現地を視察した設計の井上誠一は、「こりゃダメだ」と語ったと三十年史は書く。
 しかし吉田は、是非ゴルフ場を造ると主張。設計の井上が、用地の面積、地形から27ホールを助言したのに対してあくまでも36ホールをと強硬、昭和34年10月17日に地鎮祭を挙行、用地買収と平行しての工事を始めた。
 コース用地をめぐっては、隣接の横浜CC、そして相模鉄道との争奪戦となる。まとまった川上地区を、間野貞吉設計で先行して着手した。土地取得の事情で度々の設計変更をくり返しながら昭和36年12月20日、川上コース・18ホール、6510ヤード・パー72を開場。現在の東コースである。
「アベレージゴルファーに使い勝手のいいコース」(三十年史)だとしている。

2005日本女子オープン最終ホール グリーン上 宮里 藍 戸塚CC西コース18番ホール

2005日本女子オープン最終ホール グリーン上 宮里 藍 戸塚CC西コース18番ホール

 名瀬コース(現在の西コース)は、30台以上の大型ブルドーザーを導入しての大工事だった。動かした土量は、川上が100万リューべ、名瀬は270万リューべの大工事で、ゴルフ場造成が機械化される先駆となった。開場は、昭和37年10月17日。18ホール、7041ヤード・パー72.設計の井上誠一は、「個々に何番がどうという批評もあると思いますけれども、私自身としては、コース全体の調和といいますか、そういうものはまあまあ保たれていると自信をもっています」と語っている。
 名瀬コースには、吉田秀雄社長は、国際的にも通用するチャンピオンシップコースを構想していたようだが、成果はどうだったか。
 現在のリニューアルされた西コースになる前の名瀬コースでは、昭和43年4月にはエキシビションでゲーリー・プレーヤーも来場。昭和52年10月、ジャック・二クラスがチャリティゴルフをラウンドしている。昭和50年からは日本プロマッチプレー選手権を8年連続開催して、チャンピオン級コースへの階段を順調に上る。
そして遂に、昭和61年、国内最大のメジャー日本オープン選手権を開催。中嶋常幸が、4アンダー・284ストロークで優勝している。

新クラブハウス登場で第2創生期に入る
 
戸塚といえば、丹下健三設計の巨大なコンクリート建物のクラブハウスが有名だった。大きな竹を真二つに割った切断面を上に向けて屋根にした斬新且つ異様な前衛建築だった。まるで納骨堂だという者もいたという。大変な金喰いビルディングで、総面積1520坪、当初予算1億6000万円が3億6000万円に膨らんだが、吉田社長は強行した。
 平成9年11月、土焼瓦色の外壁にフランスで焼入れをしたというフランス瓦のグレーの屋根を載いた現クラブハウスが現われる。クラブハウスが新しくなったのを契機に、戸塚CCは、第2創生期に入ったようにリニューアルを始めた。
 東コースは、平成19年設計家大久保昌によって、2グリーンからペンクロスの1グリーンへ大改造され、バックティを新設、6770ヤードに伸ばされた。結果、アベレージ向けのプレーしやすいコースから、上級者のシニア、レディスも楽しめるコース、西コースとは違ったテーストを持ったコースにグレードアップされた。
 西コースは、同じく大久保昌の手によってきびしく井上誠一の原設計が復元された。因みに大久保は、龍ヶ崎CC(茨城県)開設時に、井上誠一の下で直にその仕事を見てきた直弟子である。この改修によって西コースの戦略性と修景と造型美は、より際立ったものとなった。ヤーデージは7073ヤード、グリーンはペンクロスオーガスタとペンクロスの2グリーンである。
 西コースは、関東地方を代表するチャンピオンコースの1つだが、際立った難ホールを提案してはいない。バランスの取れた18ホールだ。その中で“戸塚のアーメンコーナー”を挙げるとすれば、15番、16番、17番ホールであろうか。
 15番(485ヤード・パー4)は、ハンディキャップ2の難ホールだ。第2打地点から上り勾配で、グリーン面が見えにくい。第1打の落下点が深いハロー(窪地)になるので、第2打を狙うためのどこに着地するかが鍵となる。
 16番(636ヤード・パー5)関東では一番長いパー5のホール。ヤーデージからみて2オンは無理、しかし難易度は高くない。ティからグリーンまでハザードはよく見え、飛球ははっきりと見極められる、第2打をサブグリーン側に落とさないことだ。
 17番(417ヤード・パー4)短いが勝負を左右するホール。第1打は大きい打ち下ろし、成否のカギは、グリーン面を見せない高いピンを狙う第2打。グリーンは後ろから前へ右から左へと変化が交織されていて複雑。バーディとボギーに分れるホールだ。

 

 戸塚カントリー倶楽部(メンバーシップ)
 所在地   神奈川県横浜市旭区大池町26
       TEL 045(351)1241
 コース規模   西コース 18H 7073Y P72
         設計 井上 誠一  コースレート73 
         東コース 18H 6619Y P72
         設計 間野 貞吉  コースレート71.7
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